理系夫婦Y子とMの昭和から令和まで

都内で働く薬剤師Y子と、パソコン・DIY・生物などに詳しい理系の夫M。昭和30年代から今日までの実体験に最新の情報を加え、多くの方々、特に子育て・孫育て世代の皆様のお役に立つことを願いつつ発信する夫婦(めおと)ブログです。

おもいでの味 かな?

Mです。

 Y子と中高生の頃の話をしていた中で、イチゴシロップが出てきた。今では明治屋さんなどが500ml程度のボトルで供給している、かき氷にかける赤いヤツ。
Y子の最新ブログ内容にそぐわない、虫歯になる食い物である(Y子のツッコミ:この赤い液体だけを頻繁に飲んでたらダメだけど、かき氷にかけてサッサと食べ、お茶か水で口をすすげば、そう悪くない)。

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われらが高校に入った年、ちょうど地元に国体がやってきた。

 その1年前、中学3年だったわれらは、運悪く、その予行演習のような準備作業などにかり出された。Y子は市の中心にある大規模中学でブラスバンド部に所属していたので、競技を行う場所に夏休みに引っ張り出され、演奏したのだという。Mは市の僻地にある矮小中学の陸上部だったから、ただの人夫としていろいろな施設で土方をやらされた。炎天下の作業はそれなりにキツいものだったが、部活で炎天下に走っていたのに比べると、むしろ楽チンだった気もする。いずれにしても、今の世の中で中学生をあんな風に使役したら、たぶん大問題になるだろう。それが何の疑問もなく行われていた、なんともユル~い時代だった。

 その話の中で、Y子が、そう言えば・・・ と、差し入れに薄~~いイチゴシロップが出た、という話題になった。もちろん、あれは普通飲み物としては使っていない。あくまでもかき氷の味付け用で、薄めて飲んだという記憶は無い。ただ、考えてみれば、色つき香料入り砂糖水なわけで、希釈して飲んでも問題はなかったのだろう。ただ、普通はそういう使い方をしていなかった。少なくとも、自分の周りでは。
 Y子も同様で、そのかすかに甘い赤い飲み物には少なからず驚いたらしく、笑い話だよね、と懐かしい思い出ばなしとして脳みその引き出しからつまみ出してきたのだった。

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 ところが、この話、このままでは終わらなかったのだ。
 なんと、小学校2年の夏、Mはこのイチゴシロップ製造に関わっていた、という驚くべき事実を明らかにしたからだった。その製造工程は、今でも記憶にしっかりと残っているのだ。

 とても実施できる状況にないと思うTokyo 2020から遡ること58年前、高度成長期に入っていた日本では、関東の田舎でも、その流れが確かに見えていた。

 Mの母方の伯母さん(母のいちばん上の姉さん)が、Mが暮らすことになった地域の中心部にあるせんべい屋に後妻で嫁いでいた。世の中が右肩上がりでうごめく中、せんべい屋もそれだけではダメだと考えて多角経営に踏み出していた。乾き物のせんべいには飲み物が付き物。お茶は自分で淹れられるから、当時としては売り物になりにくい。ほかの飲み物で子供にも受けるものとして、ラムネ、サイダーがあった。せんべい屋さんは、これを自分で作ることにした。ただし、老舗だったせんべい工場で作るわけにはいかない。そこで、隣の土地にコンクリート床の工場を作り、その中にサイダーとラムネをビン詰めする機械を据えたのである。そしてそれが、伯母さんに任されていた。

 Mは、その工場が稼働を始めた頃、もっと田舎に住んでいた。同じ市内なのだが、中心地から20Kmほど離れた農村地域で生まれ育っていた。借りていた家がかなり老朽化していて、土間で餅つきをすると、シロアリにやられていた天井の太い梁から、振動でパラパラと木くずが落ちてくるほどだった。その梁の上の部屋で家族が寝起きしていたので、これはまずい、ということになったのだろう。100mも無いほどの近さに小学校があって、そこに通って1年経った頃、市の中心に近い地域に引っ越すことになった。引っ越し先は、大工だったと聞かされていた祖父(Mは顔も知らないし、写真もない)が、自分で建てたという家だった。長い間空き家だったからだろう、話が持ち上がってから引っ越すまでにだいぶ手間がかかった。小学1年生を終えた時点での引っ越しを考えていたのだろうが、上手くゆかずに2年生に突入。しかも1学期の半ばに引っ越す羽目になった。親もさすがに戸惑ったのだろう。夏休みまでは転校せずに、新居からバスと汽車(電車ではない!)で元の小学校に通い続けることになった。ところが、田舎のことだから、バスや汽車は本数がごく少ない。通勤通学の時間帯だけはあるものの、小学校低学年の終業時刻は昼過ぎだから、汽車はあったがバスがない。苦肉の策で、上述した伯母さんの家で夕方のバス時間帯まで時間つぶしをすることになったのである。

 小さな頃から終始動き回っている落ち着きのない子供だったMは、友達もいない伯母さんの家でジッとしていられるはずもない。かといって、地理に詳しくないから歩き回るわけにもいかない。そんなときに見つけたのが、ラムネ、サイダー工場だった。

 なんと、その工場は伯母さんとその娘婿二人で切り盛りしていた。製造管理は伯母さんが中心で、当時はまだ珍しかった自動車運転免許を持っていた婿さんが、製品の輸送部門(小型トラックで小売り先への配送なのだが)を担っていた。

 小学校から汽車で市の中心駅に着くと、伯母さんの工場はすぐ近く。ランドセルを玄関に放ると、そのまま隣の工場に直行。ガラガラとうるさいサイダーとラムネの充填機を操る伯母さん、婿さんと一緒に、工場の一員となったのである。

 時間あたりの生産本数は多分1,000本程度だったのだと思う。できあがったサイダーやラムネのビンに、ラベルを貼るのが工員Mの仕事の一つだった。器用だね、とおだてられながら、お椀に入っている糊を刷毛でラベルにチョイと付けてビンに貼る。それを婿さんがどんどん木箱に収納して積み重ねていくから、休む暇はない。が、それがとてもスリリングで面白い。時々、機械の中でバァ~ン バシャ ガチャン という音がして動きが止まる。痛んでいたビンが炭酸の内圧に耐えられずに栓をした後で破裂するのである。そうなるとしばらく後始末で機械が止まるので、婿さんはそっちに手を取られる。そのあいだに、Mはラベル貼りを急ぐのだった。

 これがラムネの時は、もう一つの楽しみがあった。ラムネのビンには外蓋がない。内側からビー玉が瓶の口を塞いでいるからだ。そのビンが割れると、割れた後に無傷のビー玉が残るのだ。このビー玉が、駄菓子屋で売られているモノより少し大きめだったから、希少だったのである。売られている化粧ビー玉のように模様が入っていることはなかったが、ビー玉遊びの時は、珍しさで注目を浴びたのだ。バァ~ンと音がする度に、思わずニンマリしたMである。希少ビー玉を何十個も持っていたが、あれはどこにいったのか・・・

 その工員M、実は、伯母さんからもう一つの仕事を任されていた。それがなんと、かき氷のシロップ製造だったのである。

 当時、シロップは一升ビンに詰めて卸されていた。無色(蜜 と呼ばれていた)、黄色、赤、緑の4色があった。一度に作るのはどれか一つだったが、なぜかと言えば、溶かす大バケツが一つしかなかったから。外が緑で内が白のホーロー引き大バケツで、多分100Lクラスだったはずだ。小学2年生のMの胸くらいまである容器だった。その中にMが壁に貼ってある分量にしたがって柄杓で砂糖を入れ、スプーンで香料と色素を入れる。大きな薬缶にわかしてある湯を婿さんがジョボジョボと入れてくれるので、長い棒でゴロゴロかき混ぜながら溶かすのがM。溶けたら今度は井戸水を入れて容器の8分目くらいまでにしたところで、長い柄にプロペラのついた機械を突っ込んで小一時間撹拌してできあがり。そのシロップ液は、大きな柄杓と漏斗で伯母さんか婿さんが一升ビンに詰めていく。Mはその先にいて、足踏み式の王冠カシメ機でシロップの一升ビンに蓋をしていくのであった。蓋締め作業が終わったら、あとはサイダーやラムネと同じようにラベル貼り。ラベルがついた製品は、婿さんが大きな一升瓶用木枠に詰めて重ねていった。

 HACCPにしたがった近代的な食品工場の様子とは、根本から異なる原始的な家内工業。子供が学校帰りの服のまま、手を洗ったくらいで食品に類する「商売モノ」を作っていたのである。今考えるとゾッとするけど、たまらなく面白い経験だった。
 大きな工場ではないし、それほどの商域を持っていたとも思えないが、小学生の作ったシロップで、近隣のたくさんの人々がかき氷を食したのだと思うと、実に愉快である。
 そんなごくごく小さな生産工場が、日本中至る所にあったのだろうと思う。それがいつしか、大規模生産企業の誕生で、経済成長とともに消え去っていったのだ。

 Y子のはなしに出てきた薄~いイチゴシロップは、当然Mが製造従事者になっていた伯母の工場のモノではない。その時分は既に、伯母さんの工場は閉鎖していた。ただ、Y子が小学生低学年だった頃は、もしかするとMが作ったシロップでY子がかき氷を食べていたのかも知れない。

 う~~む、もしかして、赤いシロップ が 赤い糸 だったのか?!

 半世紀前の笑い話である。

歯に配慮しつつ、おやつを選ぶ

薬剤師Y子です。

今日は久しぶりに「歯を守る」ことに関して書きたいと思います。

 

このブログで私が初めて歯について書いた記事は、こちら。↓

www.yakuzaishi-y-co.work

2度目に書いた記事は、こちら。↓

www.yakuzaishi-y-co.work

3度目の今回、私が歯について書こうと思ったのは、ネットサーフィン中に [市販の飴やガムに表示されている「ノンシュガー」と「シュガーレス」の違い] について

ノンシュガーという表示の場合、砂糖は使用されていないが蜂蜜果糖などが含まれていて、砂糖と同じ程度むし歯を作るものもある。一方、シュガーレスと表示されている製品には、還元麦芽糖パラチノース、マンニトール、エリスリトール、キシリトールなどの糖アルコール)や、高甘味度甘味料(ごく少量で甘味の強い糖、ステビアなど)のみが使用されていて、むし歯をほとんど作らない

という記述を見つけたのがキッカケ。 

へ~、そうなのかあ。知らなかった~。「ノンではダメ。レスを選ぼう!」と覚えれば良いかな、 などと思いながら、たまに泊まりに来る4歳の孫娘と一緒に彼女のおやつを買う時のために、自分が納得できるまで詳しく調べたくて更に検索を続けたところ、なんと「ノンとレスの違いに関して、上記は古い! 今は下記が正しい。シュガーレスとノンシュガーは同じ意味。しかも変わってから20年以上も経ってる!」ということが判明。ネット検索で上位表示されるサイトから順に読んで「わかったような気になる」ことの危険性を痛感しました。www.kc-kichijozi.com

1996年に栄養改善法が改正され、1996年5月24日から1998年3月31日は猶予期間とされていましたが、1998年4月1日から次のように義務づけられました。

●「シュガーレス」=「ノンシュガー」
食品に含まれる単糖類・二糖類が0.5%以下である

よって、現在は同じ意味として使われているのです。(以上の小さい文字は、下記サイトより)

ノンシュガー・シュガーレスの違いは? | オレンジブログ〜札幌市南区の歯医者さん〜

 

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さらに「砂糖と違って歯に悪くない。むしろ歯を守ることにつながる」という印象がある「キシリトール」について、「ガムにキシリトールが使われているのは、虫歯予防のため。でも飴に使われているのは清涼感を得るためで、キシリトール入りの飴に、虫歯の原因になる原料が含まれていることも多い」と知りました。 

キシリトールはなぜ歯にいいの? | 交野市倉治の歯医者 | おがわ歯科こども歯科クリニック

 

孫娘はチョコレートとアイスクリームが大好き。「両者のうち、チョコよりもアイスの方が虫歯になりにくい」と知ったのも、今回の一連のネットサーフィンの大きな収穫でした。 

虫歯になりやすい飲み物、食べ物 | けんせい歯科

 

また、こちらの歯科医院のサイトにある「間接清掃性食品」、特にレモンと梅干しは、食べずに思い浮かべるだけでも効果があります。

清掃性食品と停滞性食品|浦安市 新浦安駅前の歯科医院デンタルオフィス・ソレイユ

私の仕事は「9時間拘束」で、1時間の休憩を除くと「よほどのことがない限り、水を飲みに行きたいとは言いにくい」現場。仕事中、口の中がカラッカラに乾いてしまったときなど、私は「白い御飯の上の、大きな梅干し」や「ナイフでスパッと切ったら果汁が溢れ出た、いかにも酸っぱそうなレモン」を思い浮かべて唾液を出しています。

 

何でもネットで調べることが出来る便利な時代。古い情報、不正確な情報、誰かが自分の利益のために流している情報などを鵜呑みにせず、気が済むまで時間をかけて調べたいものだ、と、今回あらためて感じました。

マッチの路肩柱みつけた !

Mです。

 マッチといっても、最近ちょっと話題にのぼっていた近藤真彦クンではない。近頃ほとんど見かけなくなってしまった、点火ツールのマッチ棒のこと。

 先週半ば、打ち合わせで錦糸町付近に出向いた。
 JR錦糸町駅南口を出て、京葉道路を両国方面に歩いた。江戸の地図では横川という南北に流れる川があったが、今は埋め立てられていて大横川親水公園という親水緑地帯になっていて、北のスカイツリーまで続いている。その元横川を渡る格好の江東橋を歩いている時、歩道と車道の境目にある鎖を渡した柱の形に目が行った。 あれっ? なんだ、これ?と思ってよく見ると、四角い柱のてっぺんがちょっと伸びた丸頭になっている。・・・あっ、マッチじゃん! なんと、焦げ茶色の柱は、懐かしいマッチ棒だったのだ。

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 打ち合わせ先についてその話をすると、ああ、あの辺りが日本最初のマッチ工場だったんだそうですよ、と教わった。確か、近くの両国高校のフェンスの内側に石碑もありましたよ、と聞いた。

 そこまで聞かされては、その記念碑も見ないわけにいかない。
 小一時間の打ち合わせを終え、両国方面に戻ろうとしていたところを変更して、もう一度錦糸町駅まで引き返すことにした。

 江東橋で、もう一度マッチ型の柱を観察した。
 なるほど、どう見てもマッチだ。いちばん東側の一本は、まるで一度擦ったかのように頭の色がはげ落ちている。何か固い大きな物がぶつかったのだろうが、痛々しいよりもおかしみがあって笑った。

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 信号を渡るとすぐに南側が両国高校で、歩道沿いの薄暗いフェンスのなかに、聞いていた記念碑があった。マッチ発祥の地、とある。

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 へぇ~、東京っていうのはこういう細かな文明の利器の加工場でもあったんだなぁ、と妙な感心をしながらガラケーでパチリ。

 東京駅のすぐ近くに平将門首塚があったり、両国駅近くには吉良上野介が頸を刈られた屋敷跡があったりと、東京というのはやはり面白いところだ、と再認識させられた。

 時代小説で知るいろいろな地名や名所が、ビル群の隙間にあったり、下町小家屋の群れの中にひっそりと隠れん坊している。それを見つける楽しみは、なかなかのものだ。
 でも、探して見つけるのではなくて、今回のように何の気なしに出会ってしまうのは、もっと面白い。

 チャリで走り回る速度をちょっと落として、こんな出会いが増える工夫もしてみようと思った。

Office 迷走してるよね!

Mです。

 好き嫌いもあるだろうけれど、ずぅ~~っとAccessExcelを使い続けてきている者にとって、Microsoft Officeは、捨てられない存在になっている。

 Officeがバージョンを変えるたびに、他メーカーが、基本的な互換性のある類似ソフトを格安提供して来るのも、見方を変えれば、いかにOfficeというソフトが広く使われてきているかを示している証左だ。また、安く頒布すれば必ず買い手がつく、という点で、Officeというソフトがそれなりの高額商品だということも理由だろう。
 ちなみに、現状最新版の販売(売り切り)タイプ「Office Personal 2019」の売値は、3.3万円ほどだ。永年ライセンス、ということになっているから、高いのか安いのか判断できないのだが・・・

 とはいえ、Micorsoftさんは、Windows7ユーザーにOS無償アップグレードの権利を与えてWindows10に誘導した後、自らのソフト利用ユーザーを今流行のサブスクリプション型に誘導する戦略に出ていた。基幹ソフトOfficeに関しては、Office365なるクラウド型ソフトに一本化する、なんて流れがあったはず。Office2016が出た後、確かそんな話になっていた記憶がある。それなのに、なぜか2019が生まれ、さらには2021という売り切り型を今秋市場に出すのだと発表した。

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 う~~む、戦略がわからなくなった。

 クラウド型では顧客が十分に囲い込めない、ということなのか?
もしかしてコロナ禍での巣ごもり需要の所為なのか?

 大企業での業務処理にOfficeを使う場合、たしかに、全社共通のソフトとして一括サブスク対応で契約すれば、Lanで管理する社員全員を隈無く同じ管理下に置ける。不具合が生じても、契約内の対応で確実に復旧できるだろうから、情報管理部門としては自らが負担する責任の軽減にもなるだろう。
 一方で、小規模企業の場合、サブスク契約で社員全員分のOffice365契約をするよりも、管理者に決めた社員に売り切りタイプ正規版Officeを持たせ、他の社員は格段に安い他社互換ソフトを使わせて、社内Lanでデータの共有化さえ図れば、対外的なデータのやりとりの問題なども大抵は解決してしまう。だから、Micorosoftさんから見て、買い切り型ソフトは捨てるに忍びないニーズがある、ということなのだろうと想像している。

 かく言うM、Officeのバージョンは、なんと2010と2016で止まっている。しかも、主に使っているのは2010である。その後に生まれた新機能は、ほとんどがクラウド対応で生まれてきた機能で、Mのように基本的な作業をスタンドアローンのDesktopで行っている者にとっては、無用の長物。むしろ、2016バージョン以降で、「こんなコトもできますけど」といろいろコメントされるのが煩わしくてならない。それらは、殆どがクラウドに誘導するお知らせだから、もうウンザリなのだ。
 データのやりとりだけにNetを使って、作業はすべてちょっと大きめのDesktopで済ませるので、事実上2010で困らない。他者とのデータやりとりでも、ソフトのバージョンが上がっていっても下位互換は問題にならないから、誰にも文句は言われない。というか、大会社の方々も、実際のところOfficeのバージョン差を誰も気にしていないし、問題も生じないから、変える必要が発生しなかった、ということだ。

 ましてや、個人でのソフト利用ということになると、クラウド型Officeにする必然性はまず無いはず。新しがり屋さんがなびいた、ということはあろうが、ほとんどの場合、Officeがないとダメ、ということはなかっただろう。結局、見込んでいたほどOffice365への個人ユーザー移行が獲得できなかった、ということなのかも知れない。

 だから、売り切り型を捨てるわけにはいかなかった。

 と言うよりも、むしろ、売り切り型をもう一度収益の柱に引き戻そうとせざるを得なかった、ということだろうと推察する。
 迷走、と言ったら気を悪くするだろうが、状況としてはそうなっているように見える。

 スマホ中心への流れの中で、PCを使わずに済ませてしまえる社会に変化し、icrosoftさんも、結構焦っているのではないだろうか。

 コロナがらみで在宅業務が固定化してしまった状況でも、大企業が大きな一括契約でクラウド型管理を行うのは当然だろう。ただ一方で、社員個人レベルでの対応にも割安で協力する体制を見せたい、ということなのではないか。

 秋に販売開始のOffice2021の詳細情報は、まだ無い。ただ、価格だけは決まっているようで、2019バージョンと同じ、という情報だ。実際には、割安一括販売なんかも企業向けに行うだろう。要は、サブスク型に一本化、から、売り切り存続、で、両立の戦術を採用するのだろう。

 旧い奴だとお思いでしょうが・・・
 作るファイルにさえ互換性があるのなら、ソフトの更新に慌てることはない、というのがMの持論。お世話になってはおりますが、Micorosoftさんの上客ではないようで。
ゴメン!

「四戸」はいずこ?

Mです。

 以前から気になっていたのだけれど、これまで調べずにいた地名の不思議を、昼休みにググってみた。岩手県青森県の境界領域にあるはずの「四戸(しのへ)」についてだ。

 我が家のリビングの壁に、Biccameraさんが毎年タダで分けてくれるカレンダー付き日本地図が貼ってある。幅60cm高さ100cmの、結構大きな地図である。毎朝電気カミソリでひげを剃りながら3~4分ほど眺めるのが習慣。そのとき、ちょうど目の高さあたりに岩手と青森の県境が東西に走っていて、気づくとそのあたりを中心に眺めていることが多い。
 その度に、太平洋側に並ぶあの地名が目にとまる。


一戸 → 二戸 → 三戸 → 五戸 → 六戸 → 七戸 → 八戸 → 九戸


戸って、いったい何? そして、なんで四戸だけ無いの?


 数分の間に必ずその疑問が生じては、ひげを剃り終えると脳の記憶野からはじき出されて、有耶無耶になっている。

 今日の昼、そういえば、と急に思い立ってこの疑問を調べてみたのである。

 ググってみて驚いた。同じような疑問から発生したサイトがたくさんある。自治体のサイトもあれば個人の疑問解決サイトもあって、賑やかである。
 つまみ食いするように眺めてみると、ウィキさんも含め、諸説あって確定はしていないのだとわかった。ただ、古文書の記載内容を根拠にした解説もあって、信憑性の高そうなものもちゃんとある。
 その中で、シンプルでかつ筋立てのしっかりした岩手県の資料が興味深かった。
下が、そのサイトなのでご覧あれ。

https://www.pref.iwate.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/014/672/chimei.pdf

まずは、戸ってなに?

 武士が生まれた時代あたりから、陸奥は馬の産地として重宝された。馬の育成にはたくさんの飼料が必要なのでその供給地が決められ、同時にその地区が育成された馬を年貢として納める行政部署となった。その行政区が「戸」なのだそうだ。鎌倉時代史書吾妻鏡」に陸奥の「戸」から納められた馬のことを戸立(へだち)と表現されていて、既に12世紀より前から「戸」が存在していたらしい。
 簡単に言ってしまえば、年貢として納める陸奥馬の牧場であり集積地のくくりが「戸」だったのだ。
 武士が世の中の中枢を占めるようになって行くにつれて優れた馬の需要が高まり、陸奥の馬の増産が求められた。その結果として、複数の「戸」を作っていくとき、名称を番号で表していったので、一戸、二戸、三戸となった、ということなのだろう。地図上で見ていくと、現在の盛岡市近くにある一戸から始まって、北に順番に七戸まで並んでいき、いきなり海岸方向に南転して八戸、さらに南下して九戸で終わる。
地図上だとすぐ横に並んでいる九戸と一戸が奇妙に思えるが、じつは、この2カ所の間には急峻な山地が南北に連なっているので、一から七までは同じ街道上に順次北に並んでいて、七戸から八戸へはこの山地を北で迂回して南下してくる、という道路事情があったのだという。山越えもやればできないことはないが、やはり往来が楽な道を選んだのは当然のことだろう。

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さて、もう一つの疑問「四戸」はいずこ?
答えから言うと、ちゃんと「四戸」は存在していたのだそうだ。

ぼやけているので見にくいが、下の古地図の真ん中あたりにある。 

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 八戸と山地を挟んで西に当たる地域にあったのだが、九戸の乱といういざこざが起こって、四戸を治めていた櫛引氏という一族が滅び、四戸がその周辺の「戸」に分割吸収されてしまったのだという。八戸市の西部にある櫛引八幡宮には、四戸存在時の名称が残っていて、四戸八幡宮とも呼ばれているとのこと。そう考えると、三と五と八に挟まれた窮屈な地域に行政区がひしめいていたので、区画整理したようにも見える。

 兵どもが夢の跡 と芭蕉が詠んだのは藤原氏の本拠地平泉だが、陸奥の馬を巡って、地方の武士たちの勢力争いが常にどこかで起こっていたのだろう。

 町の名前が消えてしまう、というのは、そこに住んでいた人たちにとってはかなりショッキングな出来事だと思う。だからこそ、地名は消えても、神社の名前や通りの名前などに旧名が引き継がれていくという現象があちらこちらで見られるのだと思う。
 旧地名が番号で整理されていくのは、利便性優先で仕方の無いところもある。

 一方で、一戸から九戸という地名は、番号が名称そのものだった、という珍しいケースで興味深い。

それで当たりゃあ・・・

Mです。

ゲタ占い、信じます?

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 ↑ 足袋やネットさんから拝借

 画像関連、音声関連のアプリケーションを何度か購入したことのあるサイトから、
「宝くじ当選番号予想ソフト」なるモノを勧めるお知らせが来た。
 以下が、その文面だ。


 < どんなソフト >
 「ロト6」「ロト7」「ミニロト」それぞれの当選番号を予測するソフト。
 過去の当選番号の傾向を詳細に分析、そこから予測し、数字をはじき出します。
 よく出る数字をグラフで確認できたり、ランキング表示ができるなど、豊富な機能を搭載しています。
 < 特徴 >
  ・ 「5つの理論」から数字を予測
  ・ ソフトを起動すると、過去の当選番号を自動でダウンロード
  ・ 予測結果をロト購入用紙に直接印刷できる
  ・ 好きな番号を予測に入れたり、嫌いな数字を予測から外せる

 当選を保証するわけではありませんので、あらかじめご了承ください

 年金問題やコロナ不況が吹きまくるご時世、当たりゃあ、それはそれは嬉しいことだ。

 銀行預金をしたところで、バブル期のように10年預けりゃ5割増しで返ってくるなんてことはあり得ず、良くて数パーセント増えるかどうか。通帳が有料になるなど、銀行自身の保身策で、ヘタをすると預けていることで残高が減ることさえ起こりうる。銀行普通預金はもはや、タンス預金しておいてその存在自体を忘れてしまい粗大ゴミにしてしまう事を避けるくらいの役割、しかない時代である。

 当たるも八卦、当たらぬも・・・ と言って、運はどうやって巡ってくるかわからないものだ、と占い自体を遊びに捉えていられるのは余裕のある人びと。ゼニを無駄にする事が叶わない江戸町民は、よほどのことがなければ占いなんて頼まなかっただろう。
 その時勢、もし、富くじを当てましょう、という占い師が現れたらどうだったのかと想像してみる。たぶん、サクラを使って小さな予言をいくつか立て続けに当てて見せて、もしかすると・・・と思わせて話題作りをし、老舗の若旦那かなんかを誘い出して大金をせしめるワナを仕掛ける、なんていうのがオチだったのではないか。落語にありそうな「おはなし」である。

 そうやって見てみると、今回のお誘いは、実にアッケラカンとしている。
 何も隠していない。むしろ、方法論をさらけ出して、たった1つだけブラックボックスとして提示しているのである。
「5つの理論」という不思議な要素がブラックボックス
 そのほかの説明は、単に、過去のデータを全部ダウンロードして来てデータベース化し、整理するというだけのことを言っている。その上で、何か好きなキー番号を選べば、それに沿わせて頻度順配列か何かで予想の数字を引っ張り出してくる、という仕組みだとわかってしまう。

 実は、宝くじが結構好きなMは、以前にこれと同じ事をエクセルを使って実際に試したのである。
 宝くじに関するサイトはかなりあって、その中には過去の当選番号をデータ化してくれているところがある。ロト6がいいな、と思ったので、それらのサイトから過去データをCSVファイルで頂戴し、エクセル帳票に整理してA3用紙にびっしりとプリントアウトしてみた。たしか20枚以上になったが、それらを切り貼りしてつなげ、床に広げてみた。

 当選数字を赤コマにしておいたので、すべての当選番号が赤い川模様のようになって浮き出した。それを俯瞰してみると、面白いように赤い島がいくつも現れ、それが天の川のように連なってうごめく。きれいな波にはなるはずもないが、それでも、片側に偏っては戻ってさらに次の流れに連なる、という傾向らしきモノがいくつも現れる。それを眺めて、ああ、今の波はこっちに向かっているな、という感覚に沿わせて次の当たりの島を予想する。予想した辺りに狙いを定めて数字を5組予想してみる、ということをやったのである。
 その結果は、かなり面白いことになった。
 当てずっぽうにやっていた時は、6個の当たり数字のうち2個的中がせいぜいで、ごくたまに3個的中で1,000円戻り、だった。それが、上の俯瞰法でやってみた10回ほどの実戦で、3個的中が3回、4個的中が1回発生したのである。こりゃ、行けるかも、とときめいた!
 が、その後も10回ほど続けたものの、それ以上の戦績になることはなく、4個的中も現れなかった。
 やはり、コスパはせいぜいトントンで、それ以上にはならなかったのである。

 当てずっぽうに比べれば、過去データからの傾向分析はそれなりに当たり易くはなっていた、というのが実際の経験から得た感触だ。ただ、そこまでの話で、それ以上のものではない。たとえば、20回程度の試行でもし5個的中でも起こっていたら止めずに今も続けていたかも知れないが、結局のところ、そういう感触は得られなかったのである。

 そう考えると、今回の「お勧め」も、自分で試してみた方法の上を行くとは到底思えない。3個的中くらいは結構な頻度で起こるだろうとは思う。が、あとは運次第。結局は、当たるも八卦、の世界だということ。

 ゲタの天気占いと大きな差はないだろう。
 いや、ゲタ占いの方がゼッタイに良く当たるはずだ。だって、相手が、晴れ、曇り、雨の3択だもの。

孫と公園。その10 林試の森公園と初ラーメン

薬剤師Y子です。

コロナ禍の冬、孫2人(4才と1才)、息子(孫たちの父)、夫M、私、の計5名で、朝から林試の森公園に行きました。息子一家は何度も行っている公園ですが、私が行くのは初めてです。 

1000enpark.com

林試の森公園は、上記「1000円もって公園へ行こう!」サイトの紹介写真も「第一印象は、緑!」ですし、名称も「うちは公園である前に森なんです」と言ってる感じなので、子供の頃の主な遊び場が「昭和30年代の森(あるいは里山)」だった私は、とても楽しみにしていました。

実際に行ってみたら期待どおり。樹木が伸び伸びと葉を茂らせ、適度な起伏があります。また幼児用の遊具や砂場が密集することなく配置されていて、全体として広大なので、周囲が混雑してきたら少し離れた場所に移動することも出来る、今の私たちにピッタリの公園でした。もちろん「何時間いても無料!」です。

大人たちは皆、マスクをしていますが、幼児は「してる子」「してない子」が半々ぐらい。うちの4才女児(マスクなし)は途中から、『ドングリを拾い集めては、そこで出会った推定2才の女児(マスクと手袋を着用)に「はい!」と手渡す』という遊びにハマり、延々と続けていました。でも少し離れた場所で見守る「2才女児の母」は明らかに迷惑顔。どうなるのかなあ、と思ってみていたら、うちの4才児が狭い範囲に10個以上もドングリが落ちている場所を見つけ満面の笑みを浮かべて拾い始めた途端に、黙って2才児を抱き上げ、素早く離れて行きました。とりあえず一件落着!

この日、私たちの外遊びは「1才児とオトーサンが昼まで。4才児と祖父母は外でのランチを挟んで夕方まで」の予定でした。4才の孫娘は麺類が好きで、祖父母と3人で外食するときは大体いつも「お子様うどんセット」のようなものを注文します。「林試の森公園の近くは飲食店が少なめ」という情報があったので事前に店を決めておきたくて相談したら「まだラーメンを食べたことがないから、食べてみたい」ということになり、オトーサンが弟を連れて家に帰った後で、公園の近くにある評判の良いラーメン店に3人で行くことになりました。

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夫Mは若い頃から「行列や混んでいる店が大嫌いで、何とか回避しようとする人」ですが、今回、孫娘という特別な存在のおかげで、既に何組かが順番待ちをしているラーメン店の列に「まあ仕方ないな」とソーシャル・ディスタンスを確保して並び、自分たちが座ったら満席になる店内に入ることが出来ました。

人生初のラーメンを喜んで食べる孫の隣に座って細やかに世話をしているMを向かいの席から観ていたら、M自身が書いた「歳を経て まるく なる」という記事を思い出しました。

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孫たちの成長も楽しみですが、15才で知り合った夫Mが今後どんなオジーチャンになっていくのか、その点にも興味があります。