理系夫婦Y子とMの昭和から令和まで

都内で働く薬剤師Y子と、パソコン・DIY・生物などに詳しい理系の夫M。昭和30年代から今日までの実体験に最新の情報を加え、多くの方々、特に子育て・孫育て世代の皆様のお役に立つことを願いつつ発信する夫婦(めおと)ブログです。

あっ、この目つき どっかで見たことが・・・

Mです。

 新聞広告に、結構昔から知られている「興和」さんのビタミン剤が載っていた。
 そしてそのパッケージに、特徴的な振り向き目線のモノトーン画像。
 ずいぶん以前からときおり目にしていて、そのたびに、この目つき、どっかでみてるよなぁ・・・と、思っていた。

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  ↑ Q&P i Plus パッケージから拝借


 そしてついさっき、フッと記憶箪笥の引き出しから、昔懐かしい女優の姿と名前が飛び出てきた。60年、70年代に活躍したイタリア女優、クラウディア カルディナーレさんの目だった。彼女の映画は2本くらいしか見ていないのだけれど、強くてきれいなお姉さん、の印象がある。

 小学生Mは、田舎だけれどバスで15分も移動すれば市の中心部に行ける程度の地域に住んでいた。田舎でもテレビの普及に勢いがついてきた頃で、今のように映画がテレビでどんどん見られる様な時代ではなく、まだまだ、映画が映像文化の中心にいた時代だった。そもそも、当時のTVで映画の予告宣伝があった記憶すら無い。映画は、映画館でしか見られない特別なものだったのである。
 バスで15分(運賃20円だったような?)の市街地中心部には、映画館が2カ所あった。 駅に近いO館は東映東宝、松竹系の邦画と供給洋画を見せていて、少し離れたS館では、日活系、大映系の邦画を主に扱っていた。自宅近くのトウガラシとタバコを売っている店の前に映画館の看板がいつも2枚並んでいて、O館とS館の出し物がわかるようになっていた。年に数回だが、見に行ったのは大抵O館の上映モノで、S館のものは、やくざモノと日活ロマンポルノのポスターが多くて、小学生Mの心臓をすこしばかり高鳴らせるものの、行く”勇気”は無かった。
 そのO館で上映されていた映画の中に、ブーベの恋人というイタリア映画があって、そのポスターにあった女優の目が、今日いきなり出てきたのだ。

 間違いないよな、と思って、ウィキさんをググッてみたら、まさにドンピシャの白黒写真が載っていて、これまた驚いた。向きは逆だが、絵とよく似た角度で振り向いている写真。そのまなざしが、少しキツクて心の中を見透かされるかのような激しさがある。

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  ↑ Wikipediaさんから拝借
 ↓ 出元はココ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%AC

 興和さんのビタミン剤は、疲れの回復をうたっている類いのものだから、「元気出して! しっかりして!」の意味で、強いまなざしの絵を使っているのかも知れない。眉毛から目の辺りまでだけで強い印象を残すパッケージの絵は、傑作だと思う。
 パッと閃いて一発で描けたのか、それとも、何十枚と紙を丸めた末に生まれた一枚なのか、絵の作者に会えたら是非とも聞いてみたいものだ。

 ところで余談だが、Mが高校まで過ごしていた地域では、上記のトウガラシ屋さんのように映画館の看板を置いていた店では、枚数限定で割り引き入場券を売っていた。O館の券ください、と行くと、オバアサンが薄暗い障子の奥から、以前あったバスの回数券のようなものを出してきて一枚ちぎってくれた。記憶では3割ほど安かったと思う。どの地域でも、多分同じだったのだと思う。特定の業務、つまりは宣伝業務を支援している報酬として、映画館の入場券販売が特権として与えられていたのだと想像している。看板の置き賃はゼロでも、映画の割引入場券が一定枚数配られていて、知っている者はそれを買いに来るのでそれが看板設置の収入として懐に入る。そんなカラクリだったのかも知れない。
 小学生Mは、そのトウガラシ屋で買うと安く映画が見られることを、隣の家のお兄さんから教えられていた。6、7歳上の彼は洋画ファンで、雑誌「スクリーン」を入手すると垣根越しに手招きしてくれて、新しい映画のことをいろいろと教えてくれた。その彼が、ほかの奴には言うなよ、と前置きして、割引券のことを教えてくれたのである。みんなが知ってしまうと、前評判の高い映画を見たい者がよそからもやって来て、すぐ売り切れてしまう、というのが理由だった。トウガラシ屋さんには、いったい何枚割引券があったのだろうか。謎である。

リモート業務で、きんとうん墜落か!?

Mです。

 午前10時過ぎ、仕事中のPCが突如ネットに繫がらなくなった。

 その数分前まで、ネット上で業務上の注文、振り込み作業をしていた。その作業が終わって、仕事相手からのメールを確認して返答を綴っていたのだが、いざ送信の段になって通信不能の表示。あれっ?と思い、ブラウザを起こして確認しようとしたら、「ネットに繫がっていません」って、返ってきた!
 ウッソー、さっきまで銀行と通信してたじゃん! と言っても、何の意味もない。

 メーラーも動作しないし、ブラウザは恐竜を映したままで、ニッチもサッチも状態。

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  まあ、時折こんなこともある、と思ってすべての通信をカットして、モデム等の通信関連機器をリセット。
 通常は、これで再設定すればネット接続は復旧する、と踏んでいた。
 ところが、今回は、全く改善無し。何度やっても、繫がらなかったのである。

 悪戦苦闘30分あまり。

 モデムが死ぬとは考えにくいし、光通信機器がイカレたとも思えない。ちなみに、電話は光通信モデム経由のインターネット電話になっているが、ちゃんと繫がっている。自分の携帯にもかけられたし、その逆もOK。ということは、ネットだけが繫がらない状態になっていると判断するしかない。

 こうなってしまっては、成す術がない。一度もかけたことのないプロバイダーのコールセンターに電話することにした。

 0120回線が繫がるまで幾度もかけ直して、20分以上してようやくつながった。センターの おねえさん に状況を説明すると、自分は取り次ぎ役なので担当部署に回して折り返し電話させるとのこと。じゃ、お願いします、と切ってから1時間あまり。何の連絡もない。

????????

 再度コールセンターへ。今度は5回くらいで運良くつながったものの、さっきとは違うおねえさんの声で、同じ返答。「電話が行くまでお待ちください」・・・・

 それから30分ほどして、ようやく外線電話が入った。不満をグッと堪えて(オトナだねぇ)、受話器を取る。今度の相手は、若いおにいさん。「あと10分くらいで伺いますので・・・」 えっ、電話じゃないの?と言うと、「たぶん電話じゃどうにもならないと思いますので・・・」とのこと。なんだ? 説明しても、どうせ判らんだろう、って思ってるのか? と、ムカッときたが、ここもグッと堪えて、ハイ判りました、よろしくお願いします・・・

 10分、20分、そして30分ほどして、電話が来た。「近くに来ていると思うんですけど、伺う場所が判らないんです・・・」と言う。
 今どんなところにいるのかを尋ねると、すぐ近くの建物の前にいると判った。よかった! そこから南に3軒目だと説明して、ようやく来てもらえた。

 やって来たのは、以前のカラテカ矢部さんによく似た、くりくり坊主のおにいさん。        

 状況を説明すると、大きなバッグからブックPCを出してモデムとつなぎ、こちらの説明を確認し、「ほんとですねぇ、繋がりそうもありませんね」と言う。モデムが壊れたとも思えないと言うと、「そうですね、それは無いでしょう。これ、プロバイダーのオーバーロードです、きっと」とのこと。えっ、回線がパンクしてるって事ですか? と聞くと、「東京、神奈川では最近この現象が多いんです」と返ってきた。それって、ステイホームで仕事してる人が多いから、プロバイダーへのアクセス経路が一挙に増えたってこと?と聞くと、「まさに、それです。今までは、会社の通信回線一本で社員全員がまとめてサーバー経由で通信していたんですけど、いま、一人一人が別々に同じプロバイダーにアクセスをかけてくるんで、回線自体が繋がりにくくなってます。どのプロバイダーでも起こっているんですが、混んでいるプロバイダーとそうでもないところがある状況で、こちらでお使いのプロバイダーは、いまパンク状態なんです」とのことだった。

 何のことはない、インターネット回線に生じた「コロナ禍」だったのである。

 クラウドサーバーに乗って悠々空を駆けていた悟空が、気づけば頼みの觔斗雲(きんとうん)が細かくちぎれてグツグツになり落下!、といった感じ。 

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  在宅勤務で無駄を排する、という効果は、コロナ禍のプラス面として顕著になってきているものの、一方でこんな落とし穴があるとは思ってもいなかった。

 おにいさんは、とりあえず、繋がらないのは困るでしょうから、と言って、自身の個人契約のプロバイダー設定を貸してくれた。会社から比較的空いているプロバイダー情報を連絡させるので、それまで使ってくれていい、とのこと。

 メンテ業務の方々も、苦労が多いのだ。客によっては、おにいさんのせいじゃないのに、ガミガミいう人もいるのだろう。SEさんたちは、大変な状況なのだ、と同情してしまった。同時に、プロバイダー業界も、サーバー容量アップ、回線容量アップで対応しなくてはならないだろうから、それも大変なのだろうと想像している。

 それにしても、ネット社会は、見えないところで膨大な情報がやりとりされているのだと、あらためて認識させられた。
 かといって、10年前に戻れ、とは言えない。インフラ整備の更なる充実が必要なのだと気づかされる出来事だった。

さすが! こども目線の至れり尽くせり

Mです。

 仕事の関係で、こども医療の中心的存在の施設を訪れる機会があった。
東京世田谷の多摩川河岸段丘上にある、国立成育医療研究センター

じつに厳めしい名前になっているが、単純な病院ではないので仕方が無い。

 訪れるまで知らなかったのだが、実はこの施設、ずっと以前に何度も前を通り過ぎていたところだった。ただ、当時の名称は国立大蔵病院。もう、20年くらい前の記憶である。

 当時の建屋は、たしか濃い茶色の煉瓦造りの姿で、うっそうとした森の中に暗くたたずんでいた。なにしろ、元陸軍病院だったところだし、昔の国立病院にある重々しく陰気な建物だった。

 それが、今回訪れてみると180度の対局。明るくて広々していて、何とも晴れやかな気分になるほどの変貌ぶりだった。

 ↓ 施設案内
 https://www.ncchd.go.jp/
 
 同施設は、単純に病院という施設ではない。むしろ、こども医療(受精研究から周産期研究を含む)全般の基礎研究と応用研究を大きな柱にして、その柱と並立して具体的な医療行為を施せるように病院施設を組み合わせた総合施設である。すべての人に対する啓蒙も含めて、次の世代を支えていこうとする組織だ。

 とはいえ、そんな難しい理屈を前面に出す雰囲気など全く無く、コロナ禍対応で入館制限などしっかり行ってはいるが、中の雰囲気はとても和やかで医療施設特有のニオイも無いから、入っていく人々を緊張させることがない。

 入ってすぐに広い空間が広がり、患者さんと付添人を受け入れる場所のそこここに、ゆったり出来る空間やイスが配置されている。そしてこども対応の極めつけ、あそび空間が何カ所にも用意されているのがスゴイ。

 こども目線でいろいろな物が見えるように、物の配置が考えられていて、高い遮蔽物が極力排除されている。さらに、壁が明るい色あいに統一されているだけでなく、所々に絵本の世界のような絵が描かれていて、大人でも和んでしまう。

 仕事で訪れてミーティングするのが目的だったのだが、その前後に思わずいろいろ眺めてしまった。
 
 打ち合わせを終え、帰り支度している時に、入り口近くの休憩場所で面白い物を目にした。
 プレイルームの上に設置された防災器具らしき物が、目の端で「あれれ?」と思わせる像を結んだ。もしかして「ウィンダム」?! 

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              ※右イラストは ピクシブ百科事典さんから転載

 円谷特撮の最高傑作だと思っている「ウルトラセブン」で、セブンが苦戦している時などに援軍として使役するカプセル怪獣の一体。全身金属製に見えるロボットのような姿で、けっこうコミカルな動きをする愛らしい怪獣だった。その顔のイメージが、この装置を見た瞬間に浮かんだのである。

 あとでイラストを見つけ、再度見比べると、最初の印象ほどは似ていなかったのが残念。だが、見た瞬間は金属色で突起があるとんがった形が、あっと思わせたのだろう。

 こんな無機質な防災装置にも、こども目線で面白くなるような工夫をしているのではないかと想像している。

  実際は、じつに堅い仕事をしている施設だけれど、入る人々をリラックスさせようとする工夫には、本当に頭が下がった。
 みんなに希望を与える仕事、たいへんだろうけれど、ますます頑張っていただきたい。 

トリチウム含有廃液の海洋放出

Mです。

**安全にやるから大丈夫。海に流しちゃいます。**
**怖くないから、国民の皆さん、これまでのことは水に流してください。**

ついに政府が踏み切った。

 どんどん増えるばかりの福島被災原発のALPS処理後廃液が、もうどうにもならなくなってきている。
 ALPSという処理装置は、日本語では多核種除去設備と呼ばれ、核汚染物質の入った水溶廃液から、放射性ストロンチウム放射性セシウムなど危険度の高い放射性物質を取り除くために、フランスなどから大急ぎで輸入して被災原発の汚染水を処理しているものだ。ただ、この装置は、イオン化していて極性のある物質の除去は出来るものの、トリチウムのようなイオン化していない放射性物質は除けない。だから、ALPS処理廃液として、被災原発敷地内に廃液タンクばかりがどんどん増えていく、という状況を作ってしまった。

 当初国が示していた廃炉処理40年など、今や誰も信じていない状況に陥っている。

 燃料デブリの取り出しはほぼ絶望的に見えるのだが、それでもまだ、「出来るはずだ論法」で推し進めている。誰が未来を見据えているのだろう。少なくとも、Mには、このままなら出口が見えない暗闇、にしか思えない。初期から思っていたのだが、最終的には、チェルノブイリと同じく、永遠のコンクリート棺桶にするしかないのではないかと感じている。

 それはさておき、敷地内で収まるはずのないタンク増設が不可能なのは誰が見ても分かること。で、とりあえず、海に流しちゃうしかない、と宣言したわけである。

 ALPS廃液は直径12m、高さ12.5mの1220㎥タンクに蓄えられている。2020年末にはその数が1000基を超えているという。貯蔵可能な量は総量137万㎥で、現状、その9割が埋まっているのだそうだ。敷地内がタンクで埋め尽くされている様子は、緊迫感にあふれている。

 東電は、2022年夏には満杯になると言っているが、裏を返せば、それ以上は入りませんからどうにかして、と当局に「スガ」って来ていたのだろう。

 トリチウムは、3重水素と呼ばれていることからわかるように、普通の水素原子が陽子一個と電子1個で出来ているのに対して、陽子1個に中性子が2個くっついた原子核の周りを1個の電子が回っているという構造で、普通の水素原子に比べると不安定でβ崩壊(電子が飛び出る)と呼ばれる核崩壊を起こす放射性物質なのだ。崩壊速度は半減期12年あまりと、小さな原子にしては寿命が長く、なかなか消滅しない。常に宇宙線が降り注いでいる地球の大気圏内では、わずかずつではあるものの常に作られているから、地球上からなくなることはあり得ない。人間を含む生き物たちはすべて、自分のカラダを作る構成要素として身体の中に取り込んでしまっているので、放射性物質とは言ってもごく当たり前の物質である。体重60kgの人間だと、体内に50ベクレル程度のトリチウムを持っているのだそうだ。だから、自然界に普通に存在しているレベルなら、トリチウムは何の問題もない。つまり、存在するだけで恐ろしい物質ではない、ということをみんなが理解しておく必要がある。

 とはいえ、それは自然界の通常レベルの線量なのであって、トリチウム濃度が高ければ当然生き物に放射線障害を与えることになる。
 その安全基準が国際的にも定まっていて、環境水中のトリチウムの場合、60000ベクレル/L未満なら安全ということにされている。現在被災原発敷地内にあるタンク内の濃度は、高く見た場合で300万ベクレル/L程だと発表されているから、これを信じるなら、最低でも50倍希釈すれば国際安全基準をクリアできる、と判断できる。だから、貯まりにたまってしまったトリチウム汚染水をどうするかを考えたときに、無尽蔵の体積に見える海に放ってしまうしかない、となるのは、理屈からすれば仕方の無いことだと思う。なにしろ、ほかに方法は思いつかないのだから。

 現に、原子炉の運転冷却水には、正常な状態でも、炉心の核分裂で生じる放射線の作用でトリチウムができて、自然界の濃度以上に含まれている。冷却水は、熱を発する炉心の周りを巡っているから温められてしまう。冷やすための水がどんどん温かくなっては困るので、温まった水は捨てて冷たい水を補給する。つまりは、温冷却水の放出をしなくてはならない。日本の原発では、この温冷却水を常に海に放出しているのだが、その際、放出水の放射線量をモニタリングしながら安全基準以下になるようにして海に流している。原発が海の近くにある事が多いのは、この冷却水の排出が簡単だから、という理由も関係している。そしてこれは、国際的に見ても当たり前のことで、危険視はされていない。

 ドイツのメディアが、中国版の記事として日本のトリチウム廃液海洋投棄に関する論説を発信している。事実を的確に分析・解説していて、一読に値する。

 ↓ 

www.recordchina.co.jp

 どこの原発でも普通に流しているモノなのだから、安全基準さえ守れれば別にかまわないじゃないか、というのが当局の考え方である。そして、肯定的な見方が諸外国にもあるわけで、決して異常なことではない、ということが、この論説からもうなずける。

 でも、それで本当に良いのだろうか? という疑問がある。

 トリチウム廃液とは言っているが、ALPSで処理できるはずの他種放射性物質が完全に除去されているとも言えず、詳細は明らかにされていない。そもそも、事故原発廃炉できるという前提自体が怪しい東電と国の処理事業は、現状で疑念がいっぱいの状態だ。基本的に、隠せる物は隠したい、という体質が見えてしまっている。そんな状況の中で、貯まってしまったからには仕方ないね、と簡単に同調できる雰囲気にはない、ということが一番の問題なのだと思う。

 論理的にこれしかない、ということは認める。しかし一方で、その具体的な方法論が明確に示されていないのでは、誰も納得できないと思うのだ。
 政府が言う「大希釈して安全な濃度にしてから放出」、という言い方にも、大いに疑問がある。

  ◆どこで希釈するの?

  ◆どうやって希釈するの?

 そんな素朴な疑問にも、何ら具体的方策が返ってこないからである。

 安全な濃度に希釈、のイメージを絵にしてみると、下の絵のようになる。
 左の小さな水槽の汚染水を、右の巨大な水槽に注いで海水をドバドバ入れて薄める、というイメージだ。薄めたらもう安全だから、巨大水槽から海に流すのである。

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 現実には、こんな巨大な水槽を作って希釈するなんてことはしないだろう。はるかに小さな混合装置で、少量の廃液を大量の海水と混合しながら徐々に廃棄していく、という手法が採られるのだろうと想像する。しかし、そのような装置であっても、今の言い様では、沿岸廃棄になると感じられる。
 そうだとすると、福島沿岸の漁業に風評被害が再び発生するのは明らかで、いくら政府が安全だからと言ったところで防げるものではない。現に、この状態を作ったのは長いこと続いていた国と企業との馴れ合いの結果だった。それを、失敗した後で、大丈夫だから大丈夫だから、と言い繕ってなだめるなんて無理なのだ。

 海洋放出、仕方が無いから認めましょう。でも、それならば、安全で、沿岸住民に危機感を与えない方法を考えなくてはいけないと思う。

 例えばの話として聞いて欲しい。
 公海上にまで続く長い長~い希釈と送水を兼ねる「放水管システム」でも作って、それを海底を這わせ、はるか沖合いまで敷設する。海底ケーブルのようなイメージだ。材質はステンレス管がいいだろう。先端には、強力な水流ファンを付けておいて、出てくる希釈汚染水を水流で分散させる工夫を行う。
 この装置の起点では、貯留廃液1に対して沿岸海水を汲み上げたものを9の割合で混ぜて送り出す。この送水管を大陸棚を超えて深くなる海に更に進めていき、公海上の深い海底で放出するのだ。もともと1/10に薄めて送り出した廃液を、遠くの深海で分散放出させるから、放出場所付近のトリチウム濃度が高いまま滞留することはないだろう。沿岸には一滴も漏らさないようにするのだから、沿岸漁業の脅威にならないはずだ。遠洋漁業にとっても、表層付近の問題ではないので、影響は無いと思う。ただ、深海の放出場所に棲む生き物たちには配慮する必要があるだろう。日本お得意の深海調査で、モニタリングも行うことにすれば、研究者には新しい知見になるし、海をより深く知る事に繫がっていくのではないかと思う。
 もちろん、この方法であっても、諸外国に了解を取ったうえで進める必要がある。

 ただの言葉だけではなく、具体的な実施計画を立てて相談すれば、現状で垂れ流しを容認している国々はもとより、より厳しい判断をする国々でも、ダメとは言わないだろうと思うのだ。

 まずは、知恵を絞った具体策を見せることだと思う。

 

 この問題に関しては、いくつもの関連資料が公開されている。
 下の資料は、経済産業省が公開している検討案の一つだ。そこここに、希釈して流しちゃうしかないよなぁ、という感じが漂っている。
経済産業省2018年公開資料)
https://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/osensuitaisaku/committtee/takakusyu/pdf/009_04_02.pdf

 また、以下のものは、三菱総研が公開している解説資料だ。素人にもわかりやすくまとめられていて、参考になる。
(三菱総研 2018コラム)
https://www.mri.co.jp/knowledge/column/20180620.html

 

 どうしようもない状況にある福島被災原発の今と将来について、正直に、そして、現実的に、根本的解決策を考えるべき時期に来ていると思う。

 果たして、現政権と東電に、その気概と覚悟はあるのだろうか・・・

 願わくは、ウルトラQにあったような(気がする)海底人を怒らせて襲来を招くような事がないように、と祈るばかりだ。

あっ ハチロク!!

Mです。

 先週の中頃、朝の都内一般道を走っていたとき、中央車線側から赤いスポーティーなクルマがウィンカーをチカチカさせて前に入ってきた。あれっ、どっかで見た形だと思ってよく見ると、なんと、ハチロクではないか!
 バブル後、一度レースからも撤退してスポーツカーのジャンルを見限ったトヨタさんが、20年近く前、現社長が副社長だった時代に、再び生産に乗り出した一般道を走る低価格帯のスポーツカー「86」である。
 懐かしくて、夜になってから調べてみると、生産を始めたのが2012年で、その後、ちょこちょこと細かな改良、改変を加えて、5~6回のマイナーチェンジを加えながら、2020年度にも生産していたと知った。
 若い人たちのクルマ離れが進む時代の中で、ちゃんとファンを繋ぎ留めているのだとわかって、なんとはなしに嬉しくなった。

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     ↑ TOYOTAさんの写真を拝借

 とはいえ、実のところ、Mはトヨタ車が全く好きではない。アンチTOYOTAで、ずぅ~っと通してきている。
 同じエンジンで顔を変えていくつもの車種を作って売りまくる戦術が、昔から大嫌いで、クルマ界の帝王であることは認めるものの、その商売っ気にまみれたやり方が好きではないのだ。車の内装は確かに群を抜いてすばらしいし、価格以上の出来映えには舌を巻くしかない。その点では、好き嫌いを言わなければ、完敗である。

 でも・・・・と、ひねくれたMは思うのだ。

 クルマは、性能と特長のバランスで勝負だろう! 何がしたいか、何ができるか、で選ぶ商品であるべきだ、という思考だったからだ。

 上品で過不足ないクルマがずらりとそろうTOYOTAには、「こだわり」よりも「洗練」が見えてしまい、へそまがりのMには 眩しすぎたのだ、と思っている。

 そんなTOYOTAさん、一度撤退したスポーツーカー分野に、バブル期にお兄ちゃん層に絶大の人気を誇った カローラ・レビン、スプリンター・トレノ、という比較的廉価でオーナーが手を加えやすい型式86を復活させた。お察しの通り、これら2車種は、T社お得意の同一エンジン別車種で、販売店の系列が違っていただけ。もちろんMは、冷ややかに見ていたクチである。

 ただ、この復活のさせ方がビックリ。自社単独ではなかったのだ。なんと、主要部分を余所に任せるというTOYOTAさんとは思えない手法だったのである。
 コンセプトは、小型で低重心、運転性能の高いもの、というところにあったのだろう。エンジンを、SUBARU水平対向エンジンにしてしまったのだった。

 水平対向エンジンは、今でもつづくSUBARUさんの独壇場。ラリー界で世界的に認められている高性能エンジンである。共同開発スポーツカーに、新型86の未来を見いだしたのだった。

 作られたクルマは、TOYOTAエンブレムを付ければトヨタ86、SUBARUエンブレムを付ければスバルBRZ、と呼ばれる。

 いずれも、作られているのは殆どが群馬県伊勢崎市の富士重工工場だという。TOYOTAブランドのクルマが愛知以外で出来上がってしまうのは、珍しいのだと思う。上州生まれのトヨタ車があるのだ。

 ちなみに、先週の朝、前に入ってきた赤のハチロクは、スバルBRZだった。すごくきれいなクルマだったから、最近作られたモノだったのかも知れない。

 その目撃から2日後、今度は、松戸市内を走っていたとき対向車線を走ってくる黒のハチロクに出会った。う~~ん、こんな珍しいクルマに2度も出会うとは、ちょっと信じがたかった。ちなみに、このときは、トヨタ86だった。

 2021年秋に、新型ハチロクが発売になるそうだ。
 見てすぐに分かるあのフェイスが、どんな感じになるのか、ファンではないのだが興味津々である。

 個性がどんどん薄れていくモノが多い中で、見た瞬間にそれと分かるモノは、すばらしいと思う。

両国橋街路灯 足元が・・・

Mです。

 今朝、隅田川国道14号で両国から浅草橋側にチャリで渡った。行き先は、浅草橋駅近くだったので、川の少し上流側になる。迷わず、両国橋東詰に近い信号を北に渡り、国道の北側歩道を走った。
 橋のたもとにある見慣れた球体を過ぎ、上り坂になった橋を行くと、車道と歩道を遮る内側の欄干近くに立つ、茶色の大きな街路灯の足元に目が行った。街路灯の根元と歩道の化粧タイルとの隙間を埋めているはずのコンクリートが、殆ど砕けてしまっている。思わずガラケーでパチリ。

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 タイル板と柱の基部フランジとの高低差は50mmほどで、そこをフランジ周に合わせてコンクリートで固めてあったようだ。それが砕けて散り散りになり、だいぶ消失している。割れた大きな破片が、ずれてはみ出していた。
 はて、なんでこんな状態になったのか?
 それを考えながら、ふたたびチャリをこぎ出した。

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Google mapより転載

上側の歩道を右から左に渡った。街路灯が4本ずつ見えている。

 街路灯は、橋の全長に、上流下流同じ位置間隔で4本立っている。上流側の残り3本を注視しながら隅田川を渡った。2本目、3本目、4本目、と残りの3本の足元は無傷。なぜ一番東の一本だけ破損? 疑問が深まってしまった。

 今の両国橋は、1932年に作られた物で、補修を重ねながら現役を務めているのだそうだ。現在の街路灯が最初からついていたのかどうか分からないが、ネット上での旧い写真でも同じような柱が見えたから、もしかするとこれもご老体なのかも知れない。照明装置は当然更新されてきているのだろうが、柱自体は元のまま、ということもあるだろう。いずれにしても、橋自体はもうすぐ90歳。がんばっている!

 江戸の前期、明暦の大火(振り袖火事、1657年)の際、今の浅草橋付近にあった浅草大門が開かず、逃げ惑った人々が大勢焼死したという惨事があった。大川(隅田川)を渡れれば東に逃げられた、という事実から、その後、今の橋より少し下流側に木組みの「大橋」が作られた。幾度もの罹災と修復を経つつ明治まで木橋が続いたが、1904年(明治37年)に初代の鉄橋がほぼ現在の位置に作られ、それが関東大震災を経て昭和に掛け替えられたとのこと。

「大橋」が「両国橋」に変わったのは、後に大川下流に新大橋が架けられたからだという(1694年)。大橋が二つでは、粋ではなかったのだろう。ご本家は、武蔵国下総国をつなぐ橋ということで「両国橋」に変わった。新大橋も改名してやれば良かったのに、と思うのは余計なことか。

 そんな歴史のある両国橋。架かっている位置は、西側上流すぐの位置に神田川の合流がある。神田川は、柳橋を経て50mほどで隅田川に合流しているのだ。上写真の左上に護岸がカーブしている部分は、神田川の合流部。そのため、海に近いこのあたりは、干満の差で両国橋の上流側で川の水流がかなり乱れる。神田川からの流れが引き潮につられて勢いよく流れ出るときもあれば、上げ潮で押し戻されて渦を巻いているときもある。そんな流れの複雑な場所に作られているのだから、橋脚の埋まった川底は、現在のコンクリートの塊ならいざ知らず、江戸時代の木の橋脚だった当時は流されないように維持するのが、さぞかし大変なことだったと思う。

 そう考えると、川の流れが複雑で水の震動も伝わってくるだろうから、橋は今でも常に揺れているのかも知れない。しかも現在は、多数のクルマがひっきりなしに上を走っている。さらに悪いことに、東詰の直上には首都高があり、その橋脚震動も両国橋の東側に偏って発生していると想像する。そんなこんなの揺れが積算されて、両国橋東の袂付近は、歪みが大きいような気がするのだ。

 帰り道、今度は下流側の歩道を走ってみた。
 基部のコンクリートが砕けていた一番東側の街路灯足元は、ヒビはあったが砕けてはいなかった。

 鉄製の街路灯は、路面コンクリートよりも下の鉄製橋桁に固定されているに違いないから、基部コンクリートは、隙間を埋める飾りのような物なのだろう。壊れても、実際上の問題が無いから放置されているのだと想像する。

 それはかまわないのだが、砕ける、ということはそれだけの圧力がかかったからで、その圧力は街路灯の柱が揺れているから発生したのだろう。そんな揺れが積み重なると、街路灯基部の鉄に金属疲労が発生しないとも限らない。コンクリートのスペーサーが砕けて無くなってしまった現在は、その原因になった揺れが、微妙ではあるだろうが振幅を増す方向に変化している、と想像する。

そんな疲労骨折が起こらなければいいなぁ、と思うおっさんである。

「槐」 読めますか?

Mです。

 時代小説が好きで、現代作家さんたちの手になる物をむさぼり読んでいる。中国時代物も好きで、これもまた、現代作家さんたちの小説専門。古典を読めるほどの素養が無いので仕方が無い。

 そんな時代小説に、時折、「槐」という文字が現れる。

 鬼の木って、何だ、と思ったが想像できるモノがない。中国物だと「槐樹」となっていることもある。「庭の槐」などと書いてあるから樹木だとは思っていたが、本筋に関係ないので、読めないまま飛ばし読みしていた。でも、何度も目にするうちに、さすがに恥ずかしくなった。こりゃいったい何なのだと、漢和辞典を引くことになった。そしてようやく一文字で「エンジュ」と読むのだと知った。
 とはいえ、漢和辞典では、豆科の高木、程度にしか解説がない。それ以上調べなかったので、樹形も葉の形もイメージできずにいた。

 そんな折、去年の晩夏に孫娘と遊んでいた公園(世田谷の砧公園)で、遊具広場の中にある大木に「エンジュ」というプレートがかかっているのを発見した。子供達が駆け回っているスペースに どお~ぉん と立っている大木。濃い緑の対生複葉(先端に1枚、その後対生で5~7列)がびっしりと茂った高さ8mくらいの木で、暗灰色で深い溝のある木肌がゴツゴツとしている。幹の直径は60cmほどだった。花が咲き残っていて、それを見て豆科だとすぐに分かった。小ぶりだが、ニセアカシアに似た形の淡いクリーム色の花が、やや平たくねじれて伸びた花柄の先にまとまって付いていた。強くはないが、柔らかく甘い香りも漂っていた。

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 実際に目にしてみると、濃い緑の葉を茂らせるので、しっかりと日陰を作る。豆科だから、冬は葉を落とすのだろう。夏は日陰を作り、冬は日を通す。庭に植えるのに適した大木ということだ。
 時代小説では、江戸の大名屋敷に植えられている姿が書かれたりしている。さぞや広い敷地に悠々と枝を広げているのだろう風情を感じさせていたが、実物を見て納得した。

 調べてみると、原産国は中国大陸で、中国では役人が出世すると庭に植える木だったのだそうだ。日本に伝わったのはいつなのかよく分からなかったが、花にルチンが含まれているので、薬用にされたとあった。ということは、木そのものを植えて楽しむためよりも、有用植物として渡来したのかも知れない。もちろん、大陸で高官の証とされていたことが、高位の武家屋敷に植えられるようになった理由だろう。

 それにしても、ひょんな事から出会った槐は、実は公害に強い樹として街路樹に使われたこともあったのだそうだ。成長が遅いので、手間がかからず、道路管理には重宝したのかも知れない。とはいえ、現実に街路樹になっているところは見たことがない。成長が遅いとはいえ末は大木になるのだから、普通の広さの道には植えられなかった、ということかも知れない。

 ところで、なぜ「鬼の木」なのか、そこのところは、まだ不明のままだ。
 もう少し、突っ込んで調べてみよう。