理系夫婦Y子とMの昭和から令和まで

都内で働く薬剤師Y子と、パソコン・DIY・生物などに詳しい理系の夫M。昭和30年代から今日までの実体験に最新の情報を加え、多くの方々、特に子育て・孫育て世代の皆様のお役に立つことを願いつつ発信する夫婦(めおと)ブログです。

デジタル化をあせるな!

Mです。

 近しい世界でゴタゴタがいくつも続いて、だいぶこの場から遠ざかっていた。
 その間に、世の中でもゴタゴタが発生して、しかも収まるどころか次第に深刻化している。デジタル庁という、名称と中身にだいぶ齟齬があるように見受けられる組織が進めるマイナカード騒ぎだ。

   

 すでにすべての国民に振られているマイナンバーを元にして、個人データを国レベルの統合システムに吸収して、将来的に役所業務の効率化とサービスアップが図れるようにするのだ・・・ 的な、見栄えの良い題目を唱えて突き進む公共サービスのデジタル化路線である。

 とはいえ、高度成長期の放漫ハコモノ行政とおなじく、マイナカードを作ればお金をあげるよ~~ と2兆円だかをばらまいたあげく、1対1で紐付けたはずのデータが食い違っているケースがいくつも起こったり、廃止するからと脅して紐付けさせた保険証が医療現場でアクセスできなかったり、初歩的なミスが元になった珍現象(笑ってはいられない!)が続々である。その後始末に、現場職員総動員で点検だ! と、今さらながらのアナログ対応。音頭取り大臣一人の責任にしてトンズラしようとする政府は、根本から考え直すべき断崖の淵にあると感じる。

 そもそも、政府関係者は、デジタル化という言葉をどこまで理解しているのか疑問だ。 たぶんなのだが・・・ 彼らの言うデジタル化は、だいぶ前に始まって経済界では当たり前になってきているペーパーレス化と同義なのでは、と思ってしまう。
 手書き文書、手書き書類、手書き仕様、手書き請求書、云々の様々な連絡、業務文書などを、一定のフォーマットに統一していってPC上で入力し保管管理する、文書・書類の電子化が、デジタル化という流れの始まりだった。
 ただ、これは、業務を手書きから入力に変えて、誰もが紙のやりとりなしに情報をPCとネット環境を使って共有することに目的があっただけで、真のデジタル化の前段階だといえる。なぜなら、同じアプリ、同じシステムを使っている者同士ではやりとりが出来るものの、外部の者がアクセスしても見られるモノは文書や帳票の写真と同じものであって、データそのものでは無い。現在多用されているAdobe社発祥のPDF書類と同じで、見て読むことは出来ても、データとしてはそのままコピペできない。つまり、電子化で止まっていて真のデジタル化情報ではないのだ。同じシステム内でのデジタル化で止まっている。
 そうは言っても、これだけでも、学術社会を含む産業界全体にとって、電子化は大いに役立ってきた。データそのものにアクセスされて改変でもされたらオオゴトだから、内容はわかるが元は浸食されない、というレベルでも、物事の効率は飛躍的にアップしてきたのだ。かつては膨大なファイルの中から必要なものを抜き出してコピーする、なんてことをしていた事務作業がなくなり、必要ファイルをひょいひょいと集めてつなげればプレゼン資料もあっという間に仕上がる。夜中まで会議資料を作っていた時代は、もはや遠い昔なのだ。(そうでもない事業所もまだまだあるけれど・・・)

 そんな文書作成・保管の効率化を、政府の皆さんはデジタル化と思っているのではないか、というのがMの読みである。デジタル庁大臣も、多分そうだ。

 しかし、本当のデジタル化はこの先にある。

 今問題になっているマイナカードへの紐付けトラブルは、電子化レベルの資料を個人のカードと紐付けて便利になります、と言っているレベルだ。誰がその紐付けをするのかといえば、行政職員と本人の責任。そこでミスがあれば、検証も出来ないまま紐付けが固定化して、コンビニで住民票を取ったら違う人のが出てきた、診察に行ったら保険証確認が出来ない、などが起こっても現場対応は不可能なのだ。そんなこんなのゴタゴタを、さあ総点検だ! と号令をかけたところで事態が収まるとは思えないのである。   

 かつての年金機構の消えた年金データもそうだが、結局は現場職員の入力ミスが何件などと、結果のミス検出数だけを公表して、修復を指示します、と逃げれば終わりだと考えているのではないかと思ってしまうのである。

 本当にデジタル化を目指すなら、国は最低10年はかけて、個人データと紐付けすべき対象を各界で絞り込み、個人データの侵害が起こらない境界を確実に作り上げることから始めるべきだ。今はほとんどデータとして入力されているはずの各種データを、「共通のデータベース」に落とし込むことが求められる。この共通データベース・システムこそが、デジタル化の中心となる。そして、これは神聖領域として保持されなければならない。浸食されそうになったらすべてシャットアウトする機構に守られる。
 ここで最重要なのは、①浸食されてはならない個人データの入れ物を国が保証して構築し、②その外側の各種システムを、相互変換可能なものに統一していく、という作業だと思う。いささか抽象的なので言い換えると、個人データは大金庫内の個人用施錠引き出しに納めておき、表に出して良いデータと本人しか見られないデータを別の容器に入れておく。これが、①である。行政、医療現場等が必要になるデータは、全国共通のシステムから既存の自治体サーバー、医療機関のサーバーなどにアクセスして①の箱から必要なモノだけ取り出せるようにする。これが②の共通システムである。だれが、いつ、なにを、取りだしたのかが逐次記録されていくことで、後の検証が可能となる。
 このような仕組みを作れたら、特定個人のアクセスコードをマイナカードに記憶させ、いろいろなサービスにアクセスして必要な情報をどこにいても安全に取り出すことが出来る。

 言うだけなら簡単なのだが、じつは、こういう統一システムを作るのはとても大変な作業になる。そもそも、世界にあまた在るデータベース・システムは、その構築者がそれぞれ企業化していて、共通部分はあるもののそれぞれが独自のシステムを作り上げている。同じシステム同士なら世界のどこからもアクセスしてデータの取り出し、加工ができる。しかし、他社システムに入り込んでそれを行うことはお互いに出来ないようにガードしている。それをやるのはブラック・ハッカー。だから、上述の②を行うには、国内に多数存在しているデータベース・システムの管理者了承を得た上で、国レベルでのデータ共有化を進めなくてはならない。その必要性を説き、納得させ、協力を得る、というのが本来のデジタル化を目指す「国」の仕事なのだと思う。

 これを行うには、何代もの政府が共通認識で立ち向かう必要があるだろう。政権が変わってもそれが継続できるほどの、国民的な共通認識を固めておかなければ、実現しないと思う。
 小手先の「便利です」説得で普及を図ろうとするマイナカードは、デジタル化社会の象徴にはほど遠く、やっと電子化社会に踏み込んだ程度の段階だということを、デジタル庁のお役人たちはわかっているはずだ。ただ、「電子化」イコール「デジタル化」と思っている政治家たちに付き合って黙っているだけだと思えるのだが・・・

 布マスクに800億円投じてしまった政権だから、マイナカード普及に2兆円なんて、
仕事しました、の証しくらいにしか思っていないのではないか。でも、そのお金も、物価高騰にあえいでいる国民から吸い上げたモノなのです。
 あっ、だからカード作ったらお金をあげる、って言ったのか!! 
 政府の言うこと聞けば、吸い上げたモノ少し返すよ、って。

 愚痴ってしまいました・・・

藤の天下取り それは危険なシグナル

Mです。

 今年の東京近辺では、3月半ばにソメイヨシノが咲き始めて一気に咲き進み、4月には既に桜吹雪が舞っていた。
 かつての入学式祝辞の定番に「サクラもほころび」という言い回しがあったが、少なくともこの10年は、その言い回しが卒業式用に横滑り採用されて来たように感じる。温暖化というけれど、そんな変化を見てくれば、確かに日本は暖かくなっていると思わざるを得ない。

 その流れの中でも、今年はことさら暖かい日が多い3月だった。4月になるともう5月を思わせる日が何度も訪れたから、草木はそれに応じて一気に芽ぶき、花を咲かせた。
 なかでも、郊外の野山をパッチパークのように色づかせた野生の藤が見事だった。
 4月半ば、仕事で走った成田近辺の里山のそこここに、淡い紫の花がいくつもの群落を作っていて、100Km/H越えで突っ走る窓から何度も眺めることが出来るほどだった。通常は5月初旬に満開、というのが記憶の中の藤だったから、ソメイヨシノと同様に半月以上早く咲き誇っていた、ということになる。

  

   ↑ 野生の藤 Wikiさんより拝借

 きれいだなぁ、と思いながら見ていたのだが、ふと???の疑問符。
 何であんなにたくさん群落があるんだろう、と気になったのだ。むかしから、関東地方の野山には藤があった。が、大きく繁殖していることは少なくて、野山のそこここに小さな薄紫の塊がちらほらと見えているのが普通だった。たまたま大きなものがあっても、次の年には切り取られてなくなっていたり、少しだけ残されている、ということが多かった。
 つまり、野山の管理者から見ると、藤は増やしすぎてはいけない植物なのである。

 葛藤 ということばがある。
 くず と ふじ。 どちらもつる性の植物で、ほかの木々の体を支えに使って繁茂していく。実際は葛と藤が生長争いすることは少ないのだが、互いに譲らず争い合う、という意味合いで、これら2者が戦うかのように使われている。実際の戦いは、むしろ葛あるいは藤と、彼らが絡みつく相手である灌木や喬木との争いで、絡まれた側は、日光を遮られて成長が妨げられるからやっかいである。
 ことに藤の場合は、数年もするとツルが太く固くなって絡みついた木の幹を絞りつけて食い込んでいく。先端はどんどん上を目指すから、たとえば高さ10mを軽く越える杉だとて、てっぺんまで藤に覆われてしまう。そうなっては、太い幹の木であっても栄養不足と幹の物理的な損傷のダメージから、数年もすると弱り、ついには枯れてしまうのである。

 それがわかっているから、里山の管理者は、林や森の健康を保つために行う下草刈りや枝払いの際に、木に絡みついている藤を除去してきた。完全除去は不可能だが、少なくとも必要な木の生長に影響しないように切り払っていた。それでも、翌年には外から見てわかる程度にきれいな花を咲かせていたのである。

 ということは、見事な藤の群落をきれいだと感じさせた今年の風景は、里山管理が一気に貧弱化してきたことを意味している、と考えることが出来る。
 まだ里山が目覚めきらない中で一気に花を咲かせたからいつもより目立った、という可能性もある。ただ、杉一本を覆い尽くすほどの大きさで花が咲いていた箇所がいくつもあったことや、まだ芽吹いていない落葉樹が、まるで藤のディスプレイ用の支柱であるかのようにすっぽりと覆われていた状況は、考えてみれば異常なことだった。

 関東の野山、里山は、春には山菜採り、秋にはきのこ採りで賑わったものだった。下草が刈られて明るい野山だからそれが出来たのだが、今現在は、ほとんどのところがススキや笹が繁茂していて入ることも出来ない状況になっている。おじいさんは芝刈りに、なんて今ではほとんど死語だろう。

 野山が荒れると、産廃を含む違法廃棄物の捨て場所になってしまうことが多い。
 きれいな景観を守る意味だけでなく、環境の保全、という観点からも、里山を適切に管理していくための知恵を絞らなければならない。

 藤がきれいだ、と喜んではいられないのだ。

ChatGPTは 天使? 悪魔?

Mです。

 おさわがせ超資産家マスク氏が「開発を半年止めろ!」と発言するなど、驚異的な浸透をみせているオリジナル・テキスト作製AIツールChatGPTが、AIと人間の今後に波紋を広げている。

   

   ところで、開発を半年止めることにどんな意味があるのか?
 その間に人間社会を侵食しない仕組みを作れるはずもなく、一度野に放たれてしまったネズミを完全駆除することなど出来ないと思う。いつか起こるはずだったAIと人間の共存危機が、無料のアプリで幕を開けた現実は、むしろデジタルネイティブの年齢層にこそ闇をもたらす可能性が高いと想像している。
 そもそも、止めろと言っているマスク氏自身がChatGPT開発を行っているOpenAI社の設立に出資したわけで、今更になってちょっと待った、と言うのは、開発の先に何が起こってくるかを想像していなかったことになり、恥ずべきことだと感じる。そんな彼に、「待った」発言をさせるほどに、あまりに簡単にいろいろな応用が利いてしまう無料アプリChatGPTの広がりはすさまじい、ということなのかもしれない。

 このアプリについては、下記の解説がなかなかうまくまとめてくれているので、一見の価値がある。

    https://www.gizmodo.jp/2023/01/chat-gpt-openai-ai-finance-ai-everything-we-know.html

 高度の文章作成を行う分野の人ほど、このアプリの被害を受ける可能性が高い、という分析も、なかなかゾッとするものがある。たとえば、取説文書、行政文書などは当然のこと、文学作品でさえ条件設定すればそれなりのオリジナル作品ができあがってしまうだろうから、それを土台にズブの素人がいっぱしの小説をネット配信、なんてことも簡単にできてしまうはずだ。それをネタに、グループを作って応援配信を種々の形で行い、評判をあおってフォロワーを増やして有料アイテムの供給者に育てて行ってしまう。そんなことも想像できる。

 そんな流れが進んでいったとき、ネット情報は果たしてどうなっているだろうか、と想像してみる。
 現状でさえ、モノの価値を一般ユーザーの評価ということで積み上げて行く手法が多い。実際はたいしたものでもないのに、超売れ筋であるかのように作り上げてしまうのは容易だ。TVショッピング、新聞広告も含め、どこを見ても、小さく個人的意見ですと言い訳しながら、とても良い商品でもう手放せません・・・的な褒め言葉をまき散らしては期間限定でお届け、などと消費者の購買欲をかき立てる手法はごく当たり前。そこにChatGPTの手助けが加わるとなると・・・ たぶん、ネット上の情報は、ほとんどAI頼みの”だまし”になってしまう気がする。

 これは困った! となるのかな?
 
 よく考えてみれば、そうなったところで、今とそれほど差は無いという気もしてくる。 結局は、見る側、読む側が、どこまで本筋を見極められるかにかかっているわけで、表面的な部分で引きつけられてしまう人は、ChatGPT時代になろうがそれほど変化はないようにも思うのだ。
 要は、目に見える情報をどこまで信じるのか、どうやれば信じられるのかを判断するための個人スキルを磨くしかない、ということだと思う。とはいえ、みんながそれを出来るわけではない。

 ならばどうする?

 ChatGPTが先行するAI社会には、情報の信憑性を精査するためのツールが必要になるのだと思う。それがアプリなのかそれとも人が行う組織なのかは判らない。というより、どちらも必要だと感じる。スマホ常駐のウソ発見アプリ、それを開発提供するとともに実際に深い探索を請け負う調査組織、そんなAI情報ガーディアンズがビジネスとしても成り立つのではないかと感じる。

 それにしても、これから先のビジネスはものすごく大変になると思う。相手の本質を見極めるための情報自体が、相手の思惑で作られた高度なAI作品だという可能性もある。それも前提にして見ていかないと、大木だと思っていたのがじつは空洞のハリボテだった、なんてこともあるだろう。
 コロナ禍で敬遠されるのが習わしになってしまった”対面”折衝が、あらためて見直されていくように思う。

 とにもかくにも、世の中にあふれる情報は、ほとんどウソだと思うくらいに割り切ることが大切だろう。それを、子供たちにどうやって教えていくか、それが一番の課題だと思っている。

ユーミン50周年だって! すごいねぇ・・・

Mです。

ユーミンといえば、やはりなんといっても「ひこうき雲」。

 ごく初期のLPを除き、レコードで世に出たユーミンものは、長年ジャンク屋をさまよってほぼ集まっている。水洗いできれいにして、DENONで再生してDATに落とし、そこからPCに取り込んでノイズ処理・・・ そんな作業をシコシコと続けているが、いつ完了するかは全く見えていない。

 50周年記念のアルバムが出たので聴いてみたが、どの楽曲も当時のマスターからのデジタル化だとわかった。集めたLPの音と特徴がドンピシャなのだ。となると、やはりLPからアナログで再生した音の方が格段に上を行っている。せっかく記念アルバムを出していただいたのに申し訳ないが、やはりLPで聴くことにしよう。

 それにしても、ひこうき雲、のLPにはまだ会えていない。さすらいのLP探索旅は、まだ続きそうだ。

 ひこうき雲との出会いは高校生時代。

 鼻濁音が有ったり無かったりする独特の歌い方と、歌詞の中にはっきりと「死」という語を入れながらも全然暗く沈むこともない歌詞の構成、そのどちらもがそれまでになかった新しい歌の世界だと感じた。

 高校生になって間もなくの頃、お世辞にも ”じょうず” とはいえないあの歌声がラジオから流れてきて、なんだかグッときて耳を引きつけられたのが始まりだった。

 そのラジオでの出会いから、隠れファンとしての期間も、もうすぐ半世紀になろうとしている。

 ”荒井” 由実が、いつのまにか”松任谷”由実になっていたのも、知ったのはだいぶ経ってから。大学時代もずっと聴いていたのに、そんなことには興味が無かった。いつも彼女の作品を編曲してくれていたあのクルマ好きカーグラ(Car Graphic)青年の松任谷正隆さんと、いつの間にか結婚していたのだった。こっちにとって、そんなことは別にどうでも良いことだったが、彼女の曲一つひとつをまさにドンピシャの雰囲気に纏わせていく編曲のうまさを思えば、二人は切り離せない関係になっていたのだと腑に落ちた。

 だいぶ前の記憶だが、細野晴臣さんたちのラジオトークで耳にしたところによると、ひこうき雲は、デモテープで彼らの元に届いたそうだ。誰かが持ち込んできて、集まった何人かがそれを聴いてすぐ、これ面白いぞ、となったのだという。彼らが曲を仕上げて世に出し、荒井由実という新人が、数年の内に独特の世界をつくりあげ、「ユーミン」というブランドに成長した。そういう意味でも、ひこうき雲という作品こそが、ユーミンの始まりだったのだ。

 細野さん、松任谷さん、たちのような個性の強い達人たちが寄ってたかって彼女の歌詞とメロディーを咀嚼し、その世界観を個性的な楽曲に仕上げていった。その作業は、さぞかし楽しかっただろう。一つひとつ楽しんでアレンジしていったことが彼女の曲の幅広さの元になっていることは、間違いない。

 天才が産み出してくる原曲を、これまた天才の集まりが、ああでもないこうでもないといじくりまわす作業。それが、50年も続いてきたということだ。すごい、の一言だ。

 経済状況の変動で世の中が浮き沈みする中で音楽の流行もいろいろと変化しているが、ユーミンのブランドが独自の地位を築き、維持し続けられているのは、天才の原曲をアレンジの天才たちが音作りの技で商品化するという、一連の「エキスパート事業」になっているからに違いない。

  ユーミン・ブランドがまだまだ続いていくことを期待している。
 
 考えてみれば、ユーミンの楽曲については、いろいろ思うこともある。半世紀記念というせっかくの機会だから、これから少しずつ取り上げてみたいと思う。

 次回は、今はほとんど使われなくなってしまった「紙のメール」をとりあげようか、と思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Windows 11 に拒否を食らってしまった!!

Mです。

 そろそろ、Win11対応をしないといけないかな、と思い始めている。

   

 これを書いているPCのWin10バージョンは21H2なのだが、自動更新のサポートは2023年6月13日となっていた。現在の最新バージョンは22H2で、こちらのサポートは2024年5月12日だそうだ。そして、Win10のサポート終了は2025年10月14日。いずれにしても、ネット環境での脆弱性対応を含む更新サポート終了まであと3年半ちょっと、ということだ。

 Win10を世に出すとき、Micorosoftさんは、このシステムが最終のスタイルで以後は、フルモデルチェンジすることなく継続的にマイナーモデルチェンジで対応していく、というようなシナリオを説いていた。
 ところが、スマートフォンを中心とするネット社会の進化がPC単独の世界でいることを許さない、というより、モバイル空間にPCからすり寄っていかないと自らの存在価値がなくなってしまう、という危機的状況に陥ってしまった。PC危うし、の感を生み出したのだろう。そこでMicorosoftさんは、PC世界のOSを、スマートフォン中心のネット空間とスムーズに連携できる仕様に変えるしかない、と舵を切った。そしてそれが、Windows11なのだろう。
 スマートフォンの世界は、おびただしい数のアプリが次々と生まれる世界で、OS自体はほとんどその存在を感じさせないほど緩~~い基盤として隠れてしまっている。たとえるなら、広い広~~い原っぱ(iOS, Andoroid)に、いくつもの大型のストアが点在してその傘下のショップがおびただしい数のテントを張って売り声を上げている一方で、壁じゅうをゲームキャラで埋め尽くしたゲーセンがそこいらじゅうにひしめき合っている、という景色がスマートフォンの提供するネット空間だと思う。それらのショップやゲーセンの間を、これまたものすごい数のアバターがうごめき流れているのだ。
 一方、舗装された都市空間に大きなビルが規則正しく並んでいるのがPCの世界だとたとえることが出来ると思う。その年の地面は、OSという強力な通信管理網が埋め込まれていて、その仕様に縛られて作り込まれたアプリケーションのピルディングがその上に立ち並んでいる。整然としていて、ユーザーがその仕組みを理解した上で、数々のアプリを使わせてもらっている世界なのである。こちらは、しっかりとルールに従わないとアプリを動かすことも出来なくなるという制約がある世界である。だから、理屈も何も関係なくドンドン新しいアプリが放り込まれて来ては、みんながそれを楽しく使い回すというスマートフォンの世界とは、見た目から既に大きな差があるのだ。

 激しく変動することを許容しているスマートフォンの世界が主流になれば、当然、堅苦しいPCの世界は不要となってしまう。
 かといって、ビジネス、開発事業、研究事業といった専門分野でのPCは捨てられない。そもそも、自由度の高いスマートフォンの世界をつくっているのはPCの世界での仕事なのだから、それがなくなることはあり得ない。そうとはいえ、PCの世界に一般大衆はもう要らない、とは言い切れない。高機能ゲームやマネートレーディングといったPCが欠かせないネットツールとしてのPCもまた、一般大衆が使うPCの世界なのだ。
 だから、PC世界を存在を守るためにも一般大衆が使いやすいOSに変貌させる必要に迫られた。スマホアプリとの連携が容易に出来るようなOSとしてWin11が開発されなくてはならなかった流れは、そういう理由だと思う。ゲーム、ストアといったスマートフォンの世界で多く使われているアイテムを簡単に取り込み連携できるようにするためのOS改変、ということである。

 昨年リリースされたWin11では、マウスの右クリック操作に変化が加えられているなど、いくつかの操作性にWin10からの不連続な変化があるそうだが、OSの基本はWin10そのものなので、実際の使用感は全体としてみると「何が変わったの?」くらいだという。ただ、ゲームマシンのOSとして見ると操作性は格段に上がっているのだそうで、その方面の方々には評価が高いようだ。PCにインストールできるスマホアプリもも増えてきているので、スマホ主体のユーザーがスマホの代わりに大画面のPCで、という、以前とは逆の使い方にも対応しているのだそうだ。

 そう考えると、3年足らずのうちにサポートが終了してしまうという現実があるので、やはりそろそろWin11対応のマシンも用意しておこうか、という気になっきた。
 かといって、当然、Mには既製品を買う気は全く無い。自作する。そう思って、使用頻度の低い手持ちマシンをWin11に変身させようとトライして唖然! 
このシステムはWin11対応ではない、と拒否されてしまった。そのとき提示された拒否内容が下の表である。

                                                                                                                                         何じゃこりゃぁ~!! 
 調べてみると、なんと、マザーボードの設定が、従来の手法であるBIOSではダメなのだった。上表の赤い拒否リスト最初にあるBoot Methodがそれ。下方にある他の3点はマザーボードで簡単に変更できるから問題ないが、Boot Methodだけは、OSのインストール手法そのものを左右するので、すでにLegacyシステム(=BIOS)でWin10をインストールしてあるHDDをWin11指定のUEFIという手法に変更は不可能だ。システムディスクとして使っているHDDを取り出して別のPCに繋ぎ、フォーマット方法をBIOS時のMBR方式からUEFIに適合するGPT方式に変えることは、やるだけなら出来るかも知れない。が、それでシステムが動く保証は、たぶん無い。
 Win11が必須要件とするBoot Methodで行う仕組みUEFIは15年近く前から使われ始めた手法で、マザーボード上で最初に選べるようになっていた。セキュリティが強化されていてPCの付属装置との通信速度も速く、ゲーム操作が格段に速くなるとしてその方面で重宝され始めた。その流れがこの5年ほどの間に一気に加速し、その頃から後に世に出るPCのマザーボード設定は、ほぼUEFI方式に変わっている。最近のマザーボードに至っては、BIOSを選択することが出来ない物も多くなっている。

 ところが、より古い時代からPCを使ってきたMにとっては、たった3年前にあつらえた自作PCでもBIOSで組むしかなかったのである。なぜなら、組み込むHDDのフォーマットがUEFIと連携できないMBR方式で、そこにいくつもの捨てがたい旧式アプリケーションが入っていて、それを使う必要があったから。それらのアプリは、下手に移植だけしても動かないのだ。

 こうなると、将来的に、よりスムーズな操作性を実現してくれるというWin11マシンは、マザーボードの設定をUEFIにして ”まっさら” から組み上げるしかない。これまでのしがらみは捨て去って、一からのスタートになる。そして一方、サポート終了になっても、現有のWin10マシンを今まで通り使い続けしかないのだ、と思い至った。

 その訳は以下のごとく。

 Mが使っている現有Win10マシンには、実はどれにもサブのOSとしてVistaが入っている。
 VistaからWin7に代わった際、OSよりさらに下位のMS-Dosのバージョンが変わった。そのため、それまで使い続けていたアプリケーションのいくつかがWin7にインストールできなくなった。そこで、それらの古いアプリを読み込めるように、Win10と並列にVistaをインストールして、その制御下に古いアプリをインストールし、マシンとして認識できるようにしてある。一種の偽装工作のようなもので、Win10を立ち上げてから同居させたVistaにインストールした古いアプリをWin10上に呼び出し、動作させることができると分かったのである。しかし、この手法は、Win11になるとマザーボード設定の壁があって不可能。VistaとWin11は連携不能なのだ。
 したがって、これら古いアプリなどをまだまだ使い続けたいMにとっては、現有Win10マシンを捨てられないのである。

 使っている測定機器やそのデータ解析ソフトには、かなり古いものもあり、現役で最古のものは、Windows95世代である。しかもそれが簡素でなかなか使いやすく、手放す気にはなれない。

 アナログ人間のこだわりなのかも知れないが、使い慣れたモノ、フィーリングの合ったアプリがなかなか手放せそうにない。それらには当然、新世代にバージョンアップした継続アプリもあるが、使い勝手は旧式の物の方が勝っている。その理由は、データ管理が基本的にクラウド対応に変わって来ているためらしく、PC内部ですべて行った方が都合が良い旧式機器とは肌が合わないのである。そもそも、最近のアプリは、ネットにつながっていないと基本的に動作しないものさえあり、スタンドアローン状態でPCを使う場面には向いていない。もちろん設定を細かに変えていけば対応可能だろうが、そうまでして何か効率が上がるのかと言えばそんなこともない。
 結局は、世界が変わってしまった新世代アプリは、有線無線問わず、とにかくネットありきの仕様なので、融通が利かない。自分の指向に合わせて使いこなしたいアナログ派には、いささかチャラくて生意気なのだ。

 Win11を使ってみれば、おおっ、良いとこあるじゃん、となるかも知れないが、やはりそれだけでは済まないと思う。

 どうやら、まだしばらくは、世代の違ういくつものマシンを並列利用していくスタイルを続けていくことになりそうだ。

ハードディスクの健康度 便利なソフトでチェック!

Mです。

 ジャンク屋さん巡りでデータ保存用ハードディスク(HDD)を探すことが多い。
 以前も触れたのだが、映像データなど大きなモノを保存しておくために、少し大きめの容量のHDDを物色してきては、ストッカーとして利用している。
 10年前はそのサイズが数百メガバイト(Mb)でも喜んでいたが、3年くらい経つとギガバイト(Gb)クラスがフツーになって、さらに3年もするとテラバイト(Tb)が当たり前になった。価格で言うと、これら3段階が余り変わらない価格で中身だけがドンとステージアップした。つまり、半導体の世代が変わるごとにHDDの記憶容量が1000倍にステージアップしたのである。そのHDD容量は、今では10Tb以上のものが当たり前に出回っていて、Mが重宝して使っている1~3Tbクラスはもはや低価格帯の商品群に入っている。とは言っても、新品で買えば安いモノでも5000円は下らないのだから、ホイホイと買えはしない。しかも、新品だから壊れない、という保証は一切ない。壊れたら保証しますなんていうメニューもあるが、代わりの本体が手に入ってもデータは戻ってこないのだから意味がない。
 今やPCはスマホ世代の生活スタイルに押されてきわめて劣勢で、持っていてもタブレットかノートクラスである。当然、大きな容量の重いHDDなど使えない。記録デバイスもすでにHDDから半導体記憶デバイスであるSSD(Solid State Drive)に取って代わられている。テラバイト以上のSSDはあまり使われず、数百Gbクラスのモノが入っていればWin11であっても問題ないから、メモリー基板の重さしかないSSDが、薄くて軽いPCを支えている。これらの軽量PCユーザーは、大きな容量のデータを手元に保存する、という発想も必要なくなっている。彼らは、データを持ち歩いたりしない。データは、雲の上にあれば良い。つまり、クラウド世代なのである。
 一方、Mのように半分アナログで出来ている世代には、クラウドはどうしてもなじめない。アナログ世代は完全デジタル世界を本音で信用していないのである。だから、自分のお気に入りは、自らの持ち物のなかに保管しておきたい。で、結局のところ、比較的安価でつぶしの効く大容量HDDを欲するのである。

 このHDDだが、現在主流となってきているSDDに比べて衝撃に弱い、という弱点がある。もちろん、SSDが衝撃に強いのかと言えばそんなことはないのだが、薄い磁気円盤を何層も重ねて毎分5000回転以上でブン回しているHDD内部では、読み取りヘッドと磁気円盤がごくごく近い位置にあって、衝撃を加えられるとヘッドがディスクにぶつかるという単純な物理的損傷が起こりやすい。結果として、磁気円盤に傷が付いたりヘッドが損傷したり・・・で、読み書き作業にエラーが発生する。これがもともと判っているから、HDDにはこういったエラーを回避できる修復機能が備えてあって、ある程度までのエラーなら、損傷した箇所を別の場所に移して何もなかったかのようにカバーしてくれる。おかしいな、と思ったら別のノートに書き写しておく、といった感じで、実にアナログな発想だ。
 とはいえ、やはり回転構造を持つ機械だから、当然のこと寿命はある。同年代の方なら経験があると思うが、デスクトップPCから、キーキーという異音がしたり、チャカッ、チャカッという小さな繰り返し音がすることがある。どちらもHDDが物理的な損傷で旨く機能しなくなったときに起こる現象で、これが始まったら急いで出来るだけのデータを移管しておかないとヤバい! 次回も正常に起動すると思ったら大間違い、そのままお陀仏かもしれないのだ。
 さすがに最近のHDDではそんなに経験しなくなったものの、それでもちゃんと突然死は起こる。Mの場合、この5年間で5台のHDDが死んだ。500Gbクラスが3台と、1Tb、2Tbの大容量が各1台、ある日突然に読み取り出来なくなっていた。どれも修復措置をねばって大方のデータだけは回収できたが、500Gbものの本体はお釈迦にした。大容量タイプについては、ローレベル/フォーマット(ブログに既出)を施して使えるようにしたものの、一度死んだモノを保管用データに使う気にはなれないので、一時保管の持ち運びツールとして使っている。これなら、たとえ死んでも元は大丈夫だから、運び直せば良い。

 こんなことを繰り返しているなかで、2年前に出会ったのがCrystalDiskInfoという無償のHDDチェックソフトである。Vectorさんなどで簡単に入手できる。
 Mが使う5台のデスクトップには、現在、すべてこのソフトがインストールされている。そのソフト、自分でPCの健康診断をしているわけではなくて、HDDの自己チェック機能(注1参照)をそのまま使って、そこに記載されているデータを整理して表示してくれているだけなのだが、これが結構便利なのだ。
 下に貼り付けてあるのが、今この文章を書いているPCに搭載されているHDD情報の一部である。上は正常で、下は注意の状態。

    

 

    

 先日は、HDDの1台に赤の異常表示が出て、慌ててデータ回収したのだが、それが上述の2Tbだった。


 ※CrystalDiskInfoの使い方は、下のサイトを参照
     https://www.pc-master.jp/mainte/crystaldiskinfo.html

 

 このソフトは、おかしなことが起こると上のような黄色や赤のマークで警告してくれるので、週一くらいでチェックしている。注意表示が出ているディスクは、そのままでもまず問題ないようだが、ひとつでも赤表示になったら大事なデータだけは取りだして確保しておくようにしている。おかげで、以前は何度も経験したHDD故障 → データ喪失 がなくなった。

 この便利なソフトが、なんと、ジャンク屋さんでも使われているのを最近発見した。
 冒頭で、時々ジャンク屋さん巡りで大容量HDDを中古買いしていると述べたが、その立ち回り先のひとつで秋葉原ラジオデパート地下にあるジャンク屋さんが、CrystalDiskInfoで確認しただろう情報を中古HDDに表示して売っていたのである。ここは2~6Tbクラスの中古品も結構な台数置いてあり、どの商品にも稼働時間、電源投入回数、セクタ異常の有無などが書き込まれている。嘘でないことを信じるしかないのは当然とは言え、ただ動くよ、といって売るよりも遥かに信頼性が高いと感じる。大容量のモノにはWesternDigital製が多く、しかも赤ラベル。大手企業のワークステーションや共用サーバーなどで使われている高耐久製品である。値段もそこそこで、2Tbクラスが3000円台と有り難い。何台も見比べてみたが、やはり常時起動していたマシンのモノらしく、電源投入回数は数十回とかなり低く、一方で稼働時間は2~3万時間となっている。つまり、年単位で動き続けていたということ。OA機器の定期交換で流れたモノだろう。

 個人のPCだと、ずっと動かし続けていることはあまりないだろう。1日5時間起動したとしても、2万時間は4000日稼働に相当する。つまり4000回起動したということになる。HDDの故障は、メインスイッチのオン/オフ時に起こりやすいから、たとえ2万時間動いていたとしても、オン/オフ回数がかなり少ないのでむしろ故障が起こりにくかったと想像する。

 これまでは、ジャンクですから保証はありませんよ、の言葉に、仕方ないから「ハイ」と応えてきたが、このような情報が表示されているなら、どの中古品が良いか自分で選んで買うことが出来る。買い物のグレードアップだ!!
 ジャンク屋さんも、ちゃんと見ているのだと感心したのであった。

 

注1) S.M.A.R.T.; ハードディスクに搭載されている稼働情報システム。Self-Monitoring, Analysis and Reporting Technologyの略。温度、電源投入回数、使用時間、代替処理されたセクタ数、回復不可能セクタ数、ハードディスク内部の部品のイレギュラーな動作やエラーの回数などが記録されている。
 各項目ごとに、現在値や閾値(しきいち)が設定されており、HDDの健康度を判断する基準となる。現在値が閾値を下回ると健康度が低下しているということになる。

照明で音楽を聴くって・・・ 要るかい? 

Mです。

 普通品質で安い、を前面に家電品を売りまくっているアイリスオーヤマさん。
 やっちまいましたね!

 https://news.infoseek.co.jp/article/20220928jcast20222446837/?tpgnr=it

       

  同社の天井照明(シーリングライト)の新商品に、Bluetooth接続のスピーカーが付いているのだそうな。アナログ爺にとっては、そもそも何のために必要なのかが疑問なのだが、IOT化の進む家電ネットワーク構築のために、どの機器にも応答機能を付けておく、という発想なのだろうと想像する。
 それは間違ってはいないかもしれない。ライトの調光をボタン操作ではなくてGoogleHomeなどの中枢機器を通じて行い、ライトの側に音声応答させる。「光量を60%にしました」なんて応答させることにはそれなりの意味もあるだろう。
 身動きが不自由な人にとっては、QOLの向上に有効だとと思う。
 また、先進的な暮らしがしたい人にとっては、ベッドに入ってからでも、いろいろな機器を音声コントロールすることが出来るだろうから、”たまらん”ツールだと思う。

 がしかし、今回の仕様は、明らかにチョンボ(死語か?)だった。

 Bluetooth接続範囲にある人なら誰でもアクセスできてしまうというフリー接続状態になっていたため、隣家の人がBluetooth接続で音楽を聴いていたりすると、それを拾って音楽を流してしまう、というトラブルが発生したという。

 街中でBluetooth接続で音楽を聴いている人はかなりの数にのぼっていると思う。都内をチャリで走り回っているとき、いちばん怖いのはスマホ音源をワイヤレスイヤホンで聴きながら、さらに目はスマホ操作に向いたまま歩いている人だ。周りの音には一切触れることなく、自分の世界だけで歩いているから、街頭の柱にぶつかりそうになって初めて気づいたり、前の人が交差点で止まったのに気づかずぶつかってしまう光景も、ときおり目にする。これらの接続はほぼすべてBluetoothで行われている。それほどまでに普及してしまっているBluetooth機器をみんながトラブル無く使えているのは、それぞれが自分のゲートだけを出入口にしてデジタル情報にアクセスしているからだ。もしそれがなかったら、あふれる情報が入れ子になってすさまじい混沌をもたらす。デジタルネットワークが成立するために、利用者固定のゲート設定は必須なのである。

 そんな常識を知っていて、なぜアイリスさんともあろう者が、フリーアクセスの設定のまま照明器具にBluetoothスピーカーを付けてしまったのだろう?            
 ダイニングルームでくつろいでいたらいきなり大音響の音楽がライトから流れてきたというケースは、他人事で聞けば笑い話のようだが、体験してしまった人にとっては恐怖体験に近かったと思うのである。

 既に販売してしまっている機器だから、多分、特定のアドレスが設定できるように直した機器と交換するしかないだろう。あるいは、スピーカー機能のOn/Offスイッチを付けるだけでも良い。

 ただ思うのは、そういう設定を行うにはコントロール端末で初期設定操作を行う必要があるだろうから、ライトを買っただけなのに何でそんなことが必要なの?という疑問を持つ人の方が多いに違いない。

 ここは少し時間をかけて、IOTの中枢機器にかんたん登録できるように機能を進化させ、中枢から簡単に音声設定できるような仕組みを作ってから再スタート、の方が良いのではないかと思う。
 
 先を見すぎてトラブル対応するくらいなら、ちょっと遅れてもいいから確実なモノを提供する方が無難だろう。競合他社との駆け引きで突っ走ってしまったのだろうか?
 ちょっと残念である。