PCオタクの夫Mは、一方で自然派なのだ。今回は、ネイチャー・オタクMがひとこと。
「公園」の意義って、なんだろう?
Mの生まれ育った田舎には「公園」と言えるような公共施設が当時なかった。
お寺さんが幼稚園も経営していて、すべり台やブランコのある区画と柵程度で仕切られている空き地(草っぱら)なんかが、公園的な場所だった気がするけど、周囲とハッキリ区切られていたとは言い難かった。
↓ ときどき行く木場公園。HPから拝借した写真。広くてゆったりしてます。
そんな風景に比べると、東京のような都会では、公園はまさに「公共の憩いの場」って感じに整備されている。
樹木の剪定は定期的に行われているし、人が歩いて良い場所はほとんど舗装道。その回りの土のエリアは、これまた定期的に刈り取っているイネ科(ほぼ芝)で覆われているか、なんにも生えていない剥き出しの砂か土だ。
う~~んッ! たしかに、キレイではあるんだけど、人為的だよね。
田舎の公園が生き物(ヒトを含む)たちの自由勝手な地べただとすると、都会の公園は規則の網をスッポリかぶせた生き物選択出入りの貸し会議室、みたいなモノなんじゃないかと思う。
管理する側にクレームが来ないように、ヤバイ生き物なんて駆除が当然。居てもいいのは、花壇に来るチョウチョや木々に来る小鳥くらいのものだろう。カラスだって、危険動物になっちゃう。
それくらい、Safe&Cleanでなくちゃいけないのだ、都会の公園は。
このあいだ、江東区にある木場公園っていう美術館に隣接したけっこう大きな公園を歩いた。園内の舗装路がジョギングコースにもなっていて、距離の指標なんかも備わっていた。1週3.5Kmくらいらしい。
その公園は、草地もあれば樹木も多くてちょっと見には豊かな自然っぽかったんだけど、歩いているとやっぱり異様。樹木の周りに朽ち葉がぜんぜん無いのだ。キレイサッパリ回収されている。
どこかに集めで腐葉土を作っているのかも知れないけれど、木々の根元がつるんとした土っていうのはいけません。だって、微小生物が棲めないもの。当然、それを食べる昆虫もいなければネズミもいない。つまり、生態系ができていないってことだ。カタチは自然公園に見えても、中味は良くできたプラスチックの箱庭でしかない。
ただ、都会の公園は、こうならざるを得ない環境にあるから仕方ないのだろう。そもそも、ほったらかしにできる地べたがない。草が生えれば虫が出て苦情、木々が繁茂して鳥が集まれば鳥害の苦情、落ち葉が飛べばゴミ問題、犬が糞すりゃ糞害で憤慨、てな具合で管理者はやってられませんから。
ちょこっとだけ、都の公園管理についての開示文書を見てみた。
「都市公園等の整備・管理運営について」という東京都監査事務局のPDF文書を見つけたので、内容を見てみた。無料の公園は100近くもあるし、有料公開の元財閥の庭園や華族の所有地だった庭園などもそれに近い数載っていた。逆に見れば、それ以外はほとんど住宅かビルになっちゃってるってことだ。
その資料には、公園の役割として「都民の生活に潤いと安らぎを与え、生活環境を充実化させる こと」と中心意義が掲げられている。その一方で、◆二酸化炭素の吸収・固定、大気浄化やヒートアイランド現象を緩和すること、が意義として挙げられていて、植裁については◆ヒート・アイランドの観点からも植物の育成が大切になってきている、とされていた。なぁるほど、<潤いと安らぎ>っていう憩いの場的観点の存在から、<生活環境を充実化>させることを目的にした設備的観点の存在に重点が移ってきているのだ、と理解した。
そうだよね、公園なんて無くても都会のヒトは生きていけるけど、暑すぎたり空気が汚くなっちゃあ生き辛いからね。
だから、虫なんていなくてもいいわけだ。って、考えるのは、本当は正しくないのですよ!
生態循環があっての植物であって、それがない植裁はオフィスの植木レンタルと変わりがない。
二酸化炭素の吸収効果だって、ほんとうは樹木より草ッぱらの草の方がずっと効率が高いということを見落としちゃあいけません。
クレーム処理する身にもなれよ! って怒られそうだけど、それでもやっぱり、ミミズのいる草ッぱらが欲しいなあ、と思うのでした。
そうやってみてみると、荒川の河川敷の方がずっと生き生きしている。