理系夫婦Y子とMの昭和から令和まで

都内で働く薬剤師Y子と、パソコン・DIY・生物などに詳しい理系の夫M。昭和30年代から今日までの実体験に最新の情報を加え、多くの方々、特に子育て・孫育て世代の皆様のお役に立つことを願いつつ発信する夫婦(めおと)ブログです。

野山 旬の食材がゾロゾロと

Mです。

 関東のことしかわからないけれど、野山に萌葱色が見えはじめる時期になった。ソメイヨシノはそろそろ葉桜に変わりはじめ、田畑のまわりを菜の花が黄色い額縁になって取り囲む風景があちこちに見えている。利根川の堤防にも、南斜面が菜の花色の絨毯のように見える場所がいくつもある。

 こんな時期になると、なんとはなしに、そわそわした気分になるものだ。田舎育ちなので、この時期になるとこのときにだけ手に入る野草や木の芽が気になり出すのだ。

 道ばただと、白い産毛をびっしりとつけたヨモギが這うように広がりはじめ、用水路脇の畦には暗褐色の冬色から濃い緑色に変わって背を伸ばし始めたセリがこんもりとしてくる。小川の堤防では、南側の日当たりの良いところでツクシがつんつんと頭を出しているし、イタドリがとがった頭を突きだし始める。
 早取りのタケノコはもうおしまいで、間もなく立派な太いタケノコが頭を出し始めるだろう。
 枯れ草色ばかりだった野山の縁では、そろそろ棘だらけのタラが芽を伸ばそうとしている。伸ばすとすぐに誰かが掻き取ってしまうから、棒ッ切れのようなとげとげの先端付近は、これからひと月ほど、掻かれては芽を出すことを繰り返していく。人間が、もうタラノメの時期は過ぎた、と見向きもしなくなる5月末になってようやく葉を伸ばせるのである。

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自分もそうなのだが、何でこれほどまでに春先の野草は人々の目を引きつけるのだろうか。山野草ブームみたいなものがあって、売られていない独特の味覚として珍重されるのだ。

 例えばタラノメ。同じものをハウス栽培などで量産して早めにスーパーに並べられているものがあるが、野山でとってきたものとはビックリするほど差がある。野山のものは、はっきり言ってアクが強くクサイ。その特徴が良いのであって、サッと天ぷらにして食べた時の味は格別である。すうっと鼻から抜ける清涼感のある香りが、スーパーものには無いのである。

 人為的に栽培しているものが生産者から流通経路を通してセリにかかり、さらに仲買から小売りに移っていくという過程で、最低1日近くはかかっているだろうから、いくらパッケージングをちゃんと行っても、時間の関数で特定の成分が消滅していくのだろう。
 が、それだけでもないような気がする。

 野原で摘んできた野草は、料理してみると、採った場所によって色合いも固さも違っていることが多く、当然においや味が違っている。そこにまた面白みがあるわけで、野草摘みを趣味にする人があちこちにいるのもうなずける。

 旬の食材、といわれるが、本来はこういったその場所毎に特長のあるにおいや味を持つ自然食材を指していたはず。魚の旬も、もちろん天然物に対していう言葉だから、自然界の動植物が季節変動の中で特徴的な変化を現して旨い時期を、人は旬と呼ぶようになったのだ。

 そう考えると、独特の味、香りをもたらすものは、生長や繁殖の時期に出現する独特の成分、ということになる。植物の場合、それは成長点に集まる栄養素なのではないかと想像する。
 活発に分裂増殖する場所だから、そこには糖分やアミノ酸が集まるし、成長過程に沿ってその種類と量が短期間に変動していくに違いない。それが、「時期もの」の正体なのだろう。

 かじるとかなり酸っぱいイタドリの芽。成長点付近に集まるクエン酸なのだろうか。後味の良い清涼感がたまらない。
 
 さて、次の週末はタラノメ探しかな。