Mです。
”とり”と”め”もない話題ですが・・・
焼けるような暑さで、舗装道路の表面は50℃を超えているに違いない。
東京の道路は、打ち水をしてくれる人もないから、バーベキューの鉄板のような様相だ。土の地面がある小さな公園は、そんな界隈でわずかなオアシス。わずかばかりの木々の日陰に、鳩たちが日向ぼっこ、ではなく、日陰涼みでハァハァとくちばしを開けて息をしている。人間が歩いてきても、たぶん捕って食われることはないだろうと、飛び立とうともせずに荒い息をつづけている。水をあまり必要としない鳥たちとはいえ、あの呼吸では、水が欲しいのではないだろうかと心配になった。
そんな弱っちい鳩なのだが、虹彩の色が金色に近い個体の目だけはどうも苦手だ。
ヒトの虹彩も人種の違いだけでなく、アジア人程度の皮膚色の民族だと、黒に近いひとから薄い茶色のひとまでいろいろだが、さすがに金色のひとはいない。金色の虹彩というと、あのドラキュラ映画を思い出すが、白人系統のひとたちでもあそこまで金色の人は見たことがない。金色虹彩の鳩は、ドラキュラを連想させるのだろうか。
金色の虹彩といえば、イエネコの中にはかなりの頻度で金色に近い個体がいる。とはいえ、ネコの目が怖いと感じることはあまり無く、むしろ、不気味なのは瞳孔の形、あの縦に閉じる紡錘形の瞳の方である。
同じ色なのに、なぜ鳥の目の方が怖いと感じるのかと考えてみた。そして思いついたのが、感情のあらわれ、だった。鳥の目は、感情を感じさせてくれないのだ。もちろん、私見としてだが。
ネコは、ヒトと対峙したとき面と向かって、つまり、正面から顔を見合わす。すると、目そのものだけでなく顔全体の表情がわかる。目は口ほどにものを言う、とはいうが、実は顔のそれ以外の部分が感情を表現しているから相手の心の動きが見えるのだ。だから、目だけを選択して見てしまうことがない。目だけが気味悪いとか、怖いとか思わなくてすむのだと思う。
これは、イヌなどの動物も含め、正面から目と目を見つめ合う構造のいきもの全般にいえることかも知れない。そういえば、鳥でありながらフクロウ、ミミズクたちは正面を向いて見つめ合えるので、目だけを注視しなくてすむからだろう、怖いと感じない。
一方で、鳩を含む鳥たちは、人間と目線を交わすときどうしても片目で見つめることになる。顔面の構造から、両目で同じ方向を見ることが出来ないからだ。
ステレオ写真のことを記したときにも関連することを書いたが、これは、より広い角度を一度に捉えるためには好都合の目の配置で、空を飛ぶ、という特殊な行動をする彼らにとって、前後左右すべてが見えるようにするための仕組みでもある。しかし、ひとが鳥と目線を合わせようとしたとき、顔全体がわからず片目だけが自分を見ている、という構図ができてしまうことで、ひとは鳥の感情の動きを見極められない。そのうえ、金色の目立つ色の目玉のやつがいる。思わず身構えてしまう自分が、そこにいるのだ。
その一瞬を越えると、鳩はなかなかにかわいいヤツらなのだが、いつまで経ってもあの目でじっと見られることには、慣れることが出来ないでいる。
これと全く異なった印象を与える目が、馬や牛の目だ。彼らの目は、もの悲しい、というか、慈悲深いというか、静かな湖面のような印象を与える。
虹彩の色は黒っぽかったり茶っぽかったりで静かな色調だが、それ以上に、瞳を通して目の奥が深い淵のように迫ってくる。そして、その深さが、落ち着くのである。
彼らはあまり顔の表情が細やかでないし、目も正面を向いていないので、イヌやネコのような表情は判別できないのだが、片方の目だけなのに、何か語りかけているように見えてしまう。ただの錯覚なのだろうと思うのだが、面白い現象だと思っている。
むかーしむかし、堀内孝夫さんのヒット曲に「君のひとみは10000ボルト」というのがあった。
彼女はどんな目をしているのだろう。
怖い相手じゃなくて救世主のような存在なのだろうが、はてさて、虹彩は何色だったのだろう。もしかして、金色?