Mです。
田舎では必要ないもののひとつが「街路樹」という特殊な植裁だと思う。
田舎道は、幹線道路であっても歩道が整備されているということは殆どなくて、民家が道路に接していたり畑や田んぼに直結、といった風景が多いから、敢えて街路樹を植えるということはあり得ない。新興住宅地のように、それまで松、杉の里山だったり雑木林だったところが造成されたところでは、区画整理に歩道が最初から含まれているので、装飾的外観のひとつとして街路樹が植えられている。しかし、その区域を出れば昔からの景色に戻って「家屋よりも植生が優勢な環境」になるので、もはや街路樹は無用なのである。
都会はこれと全く逆の世界だ。
東京にはたくさんの公園があるが、どこもかしこも、それは人為的なにおいがプンプンしている。皇居の緑地部分や新宿御苑など、植生をいじってはいけない場所は別として、その他の公園は全て厳しく、かつ、細かな人的管理がなされている。だから、樹一本でさえ管理対象で、剪定をはじめとして一年のうち何度も人の手間がかけられているわけだ。
公園の地面には落ち葉の堆積がなく、したがって、ミミズやダンゴムシなどの枯れ葉や枯れ草を食べて土に変えていく動物もいない。まるでコンクリートのような地面なのである。
同じように、道路脇に歩道がある場合には、必ずといって良いほど街路樹が一定間隔で植えられている。それも、これで大丈夫なのかと思うほど土が見えない状態で植わっている。もちろん、腐葉土などあるはずがないから、根の部分は硬い土である。
クルマで都内を発ち、その周辺各県とを行き来することの多いMは、多くの幹線道路でいろいろな街路樹を見ることになる。
そうしているうちに気付いたのは、高度成長期の街路樹には大木になるものが多く、現在に近づくほど小振りな樹に変わってきているということだ。
前回の東京五輪に向けて突貫工事をしていた東京では、都内中心部から放射状に伸びる幹線道はケヤキ、イチョウ、カシなどの大きく枝を張る樹が植えられていた。
マラソンや競歩のコースになった都心から西に向かう甲州街道(国道20号線)のケヤキ並木は特に立派で、調布付近のそれは酷暑の夏に薄暗いほどの日陰をつくっていて、樹のトンネルを走っている気分になる。
福岡造園さんBlogより拝借
排ガス規制前にはさぞや空気が悪かっただろうと想像するが、規制が厳しくなってダンプでさえも黒煙を吐かなくなった今では、この木陰が周囲よりも環境が良いような気になってしまうほどだ。
クルマが多く走ることのない都心部の並木も、例えば神宮外苑あたりのイチョウ並木のように、たいそう大きな樹が並び立つところもあって、当時のおおらかさが見て取れる。銀杏拾いのメッカのようになっているのも、昭和の遺物だ。
街画ガイドさんより拝借
公園にソメイヨシノをどんどん植えたのも同時期で、それが今では老木となって枝落ちの心配が強まり、年々伐採の本数が増えているという状況もある。
見方を変えれば、イケイケドンドンだった昭和30~40年代は、将来のことよりも、その時立派に見えるものを選んでいた、ということなのかも知れない。
ところが、樹は大きくなるのである。
大きくなって道路側を覆っている分には、夏涼しくて良い、なんて呑気なことも言っていられるのだが、枝は反対側にも同じように伸びる。ところがその先は歩道を越えた建物だから、当然、枝払いをしなくてはならない。剪定を生業とする事業者の固定収入になるのは良いことだろうが、その作業は道路を一時的に狭くすることにつながり、歩道も歩きにくくなる。夜間にやってくれ、とは言えないのだから、夏場の選定作業は、場合によっては交通妨害となって経済活動に影響する。これは同時に、管理する側、つまり役所の経費増にひびくことで、結局は住民からの税金を街路樹整備につぎ込むことになる。だから、徐々に近づく樹木の倒壊まで考えると「大きな樹はいいねえ」と和んではいられないのである。
そんな事情が影響してるのだろう。最近の幹線道脇は、とても小さな街路樹がどんどん増えているように思う。
以前大きな樹があったはずのところがボコッとなくなったと思ったら、しばらくして背丈3m程度の樹に変わっていく。代わりに植えられている樹としては、ハナミズキ、モクレン、コブシなどが多い気がしている。
都心から東に向かう京葉道路は、大きな道で歩道も広いが、植えてある樹はとても小さい。両国付近はハナミズキが多い。
調べてみると、思った通り、最近の植裁対象はことごとく成長の遅い樹になっている。しかも「排ガスに強い」という以前の選定基準は当てはまらず、環境変化に弱い、という性質さえ持っている。何を隠そう、育ってくれなくて結構。むしろ、枯れずにいてくれればよい、のであって、それでいて歩く人に好印象を与えるかわいらしい花が欲しい、というなんとも経費最優先、印象最優先の選択なのだ。秋になると、そこそこの紅葉を見せてくれて癒しにもなる。枝を張らなければ剪定も容易だし、落ち葉も少ない。管理側にとっては良いことづくめ、なのである。
街路樹は、夏場に木陰をつくってくれて冬は葉を落として日差しが通る。大きな花が咲いたり、緑が濃く鮮やかだったり、という外観を求めていたのは昔のことなのだ。
今では、樹が大きいと道路際の広告が見えないなど、むしろ商売の邪魔になるということもあると聞く。
人は植物によって生かされている。これは紛れもない事実である。
人、というより、動物はみな、植物がないと生きていけないのだが、人の社会は、もはや別物になってしまった。自然を取捨選択する、あるいは都合良く変えていくのが生きるための手法であり、都会は、必要最小限の植物を管理しておくのがやっとなのだ。
あとは、経済活動に利する鉄とコンクリートで作り上げるしかないのだ。
もはや否定することが出来ないこの構図だから、田舎者のMは、週末になると田舎に逃げていく。
考えてみると、少しだけ逃げては戻ってくる、という人間は一番ずるいのかも知れない。そしてまた、とても恵まれているのかも知れない。
室内で緑を育てることで息抜きをしている人々からすれば、田舎の不便さもまた、うらやましいことなのかも知れないと思うのである。