Mです。
以前から気になっていたのだけれど、これまで調べずにいた地名の不思議を、昼休みにググってみた。岩手県と青森県の境界領域にあるはずの「四戸(しのへ)」についてだ。
我が家のリビングの壁に、Biccameraさんが毎年タダで分けてくれるカレンダー付き日本地図が貼ってある。幅60cm高さ100cmの、結構大きな地図である。毎朝電気カミソリでひげを剃りながら3~4分ほど眺めるのが習慣。そのとき、ちょうど目の高さあたりに岩手と青森の県境が東西に走っていて、気づくとそのあたりを中心に眺めていることが多い。
その度に、太平洋側に並ぶあの地名が目にとまる。
一戸 → 二戸 → 三戸 → 五戸 → 六戸 → 七戸 → 八戸 → 九戸
戸って、いったい何? そして、なんで四戸だけ無いの?
数分の間に必ずその疑問が生じては、ひげを剃り終えると脳の記憶野からはじき出されて、有耶無耶になっている。
今日の昼、そういえば、と急に思い立ってこの疑問を調べてみたのである。
ググってみて驚いた。同じような疑問から発生したサイトがたくさんある。自治体のサイトもあれば個人の疑問解決サイトもあって、賑やかである。
つまみ食いするように眺めてみると、ウィキさんも含め、諸説あって確定はしていないのだとわかった。ただ、古文書の記載内容を根拠にした解説もあって、信憑性の高そうなものもちゃんとある。
その中で、シンプルでかつ筋立てのしっかりした岩手県の資料が興味深かった。
下が、そのサイトなのでご覧あれ。
https://www.pref.iwate.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/014/672/chimei.pdf
まずは、戸ってなに?
武士が生まれた時代あたりから、陸奥は馬の産地として重宝された。馬の育成にはたくさんの飼料が必要なのでその供給地が決められ、同時にその地区が育成された馬を年貢として納める行政部署となった。その行政区が「戸」なのだそうだ。鎌倉時代の史書「吾妻鏡」に陸奥の「戸」から納められた馬のことを戸立(へだち)と表現されていて、既に12世紀より前から「戸」が存在していたらしい。
簡単に言ってしまえば、年貢として納める陸奥馬の牧場であり集積地のくくりが「戸」だったのだ。
武士が世の中の中枢を占めるようになって行くにつれて優れた馬の需要が高まり、陸奥の馬の増産が求められた。その結果として、複数の「戸」を作っていくとき、名称を番号で表していったので、一戸、二戸、三戸となった、ということなのだろう。地図上で見ていくと、現在の盛岡市近くにある一戸から始まって、北に順番に七戸まで並んでいき、いきなり海岸方向に南転して八戸、さらに南下して九戸で終わる。
地図上だとすぐ横に並んでいる九戸と一戸が奇妙に思えるが、じつは、この2カ所の間には急峻な山地が南北に連なっているので、一から七までは同じ街道上に順次北に並んでいて、七戸から八戸へはこの山地を北で迂回して南下してくる、という道路事情があったのだという。山越えもやればできないことはないが、やはり往来が楽な道を選んだのは当然のことだろう。
さて、もう一つの疑問「四戸」はいずこ?
答えから言うと、ちゃんと「四戸」は存在していたのだそうだ。
ぼやけているので見にくいが、下の古地図の真ん中あたりにある。
八戸と山地を挟んで西に当たる地域にあったのだが、九戸の乱といういざこざが起こって、四戸を治めていた櫛引氏という一族が滅び、四戸がその周辺の「戸」に分割吸収されてしまったのだという。八戸市の西部にある櫛引八幡宮には、四戸存在時の名称が残っていて、四戸八幡宮とも呼ばれているとのこと。そう考えると、三と五と八に挟まれた窮屈な地域に行政区がひしめいていたので、区画整理したようにも見える。
兵どもが夢の跡 と芭蕉が詠んだのは藤原氏の本拠地平泉だが、陸奥の馬を巡って、地方の武士たちの勢力争いが常にどこかで起こっていたのだろう。
町の名前が消えてしまう、というのは、そこに住んでいた人たちにとってはかなりショッキングな出来事だと思う。だからこそ、地名は消えても、神社の名前や通りの名前などに旧名が引き継がれていくという現象があちらこちらで見られるのだと思う。
旧地名が番号で整理されていくのは、利便性優先で仕方の無いところもある。
一方で、一戸から九戸という地名は、番号が名称そのものだった、という珍しいケースで興味深い。