Mです。
今朝、隅田川を国道14号で両国から浅草橋側にチャリで渡った。行き先は、浅草橋駅近くだったので、川の少し上流側になる。迷わず、両国橋東詰に近い信号を北に渡り、国道の北側歩道を走った。
橋のたもとにある見慣れた球体を過ぎ、上り坂になった橋を行くと、車道と歩道を遮る内側の欄干近くに立つ、茶色の大きな街路灯の足元に目が行った。街路灯の根元と歩道の化粧タイルとの隙間を埋めているはずのコンクリートが、殆ど砕けてしまっている。思わずガラケーでパチリ。
タイル板と柱の基部フランジとの高低差は50mmほどで、そこをフランジ周に合わせてコンクリートで固めてあったようだ。それが砕けて散り散りになり、だいぶ消失している。割れた大きな破片が、ずれてはみ出していた。
はて、なんでこんな状態になったのか?
それを考えながら、ふたたびチャリをこぎ出した。
Google mapより転載
上側の歩道を右から左に渡った。街路灯が4本ずつ見えている。
街路灯は、橋の全長に、上流下流同じ位置間隔で4本立っている。上流側の残り3本を注視しながら隅田川を渡った。2本目、3本目、4本目、と残りの3本の足元は無傷。なぜ一番東の一本だけ破損? 疑問が深まってしまった。
今の両国橋は、1932年に作られた物で、補修を重ねながら現役を務めているのだそうだ。現在の街路灯が最初からついていたのかどうか分からないが、ネット上での旧い写真でも同じような柱が見えたから、もしかするとこれもご老体なのかも知れない。照明装置は当然更新されてきているのだろうが、柱自体は元のまま、ということもあるだろう。いずれにしても、橋自体はもうすぐ90歳。がんばっている!
江戸の前期、明暦の大火(振り袖火事、1657年)の際、今の浅草橋付近にあった浅草大門が開かず、逃げ惑った人々が大勢焼死したという惨事があった。大川(隅田川)を渡れれば東に逃げられた、という事実から、その後、今の橋より少し下流側に木組みの「大橋」が作られた。幾度もの罹災と修復を経つつ明治まで木橋が続いたが、1904年(明治37年)に初代の鉄橋がほぼ現在の位置に作られ、それが関東大震災を経て昭和に掛け替えられたとのこと。
「大橋」が「両国橋」に変わったのは、後に大川下流に新大橋が架けられたからだという(1694年)。大橋が二つでは、粋ではなかったのだろう。ご本家は、武蔵国と下総国をつなぐ橋ということで「両国橋」に変わった。新大橋も改名してやれば良かったのに、と思うのは余計なことか。
そんな歴史のある両国橋。架かっている位置は、西側上流すぐの位置に神田川の合流がある。神田川は、柳橋を経て50mほどで隅田川に合流しているのだ。上写真の左上に護岸がカーブしている部分は、神田川の合流部。そのため、海に近いこのあたりは、干満の差で両国橋の上流側で川の水流がかなり乱れる。神田川からの流れが引き潮につられて勢いよく流れ出るときもあれば、上げ潮で押し戻されて渦を巻いているときもある。そんな流れの複雑な場所に作られているのだから、橋脚の埋まった川底は、現在のコンクリートの塊ならいざ知らず、江戸時代の木の橋脚だった当時は流されないように維持するのが、さぞかし大変なことだったと思う。
そう考えると、川の流れが複雑で水の震動も伝わってくるだろうから、橋は今でも常に揺れているのかも知れない。しかも現在は、多数のクルマがひっきりなしに上を走っている。さらに悪いことに、東詰の直上には首都高があり、その橋脚震動も両国橋の東側に偏って発生していると想像する。そんなこんなの揺れが積算されて、両国橋東の袂付近は、歪みが大きいような気がするのだ。
帰り道、今度は下流側の歩道を走ってみた。
基部のコンクリートが砕けていた一番東側の街路灯足元は、ヒビはあったが砕けてはいなかった。
鉄製の街路灯は、路面コンクリートよりも下の鉄製橋桁に固定されているに違いないから、基部コンクリートは、隙間を埋める飾りのような物なのだろう。壊れても、実際上の問題が無いから放置されているのだと想像する。
それはかまわないのだが、砕ける、ということはそれだけの圧力がかかったからで、その圧力は街路灯の柱が揺れているから発生したのだろう。そんな揺れが積み重なると、街路灯基部の鉄に金属疲労が発生しないとも限らない。コンクリートのスペーサーが砕けて無くなってしまった現在は、その原因になった揺れが、微妙ではあるだろうが振幅を増す方向に変化している、と想像する。
そんな疲労骨折が起こらなければいいなぁ、と思うおっさんである。