Mです。
ごく初期のLPを除き、レコードで世に出たユーミンものは、長年ジャンク屋をさまよってほぼ集まっている。水洗いできれいにして、DENONで再生してDATに落とし、そこからPCに取り込んでノイズ処理・・・ そんな作業をシコシコと続けているが、いつ完了するかは全く見えていない。
50周年記念のアルバムが出たので聴いてみたが、どの楽曲も当時のマスターからのデジタル化だとわかった。集めたLPの音と特徴がドンピシャなのだ。となると、やはりLPからアナログで再生した音の方が格段に上を行っている。せっかく記念アルバムを出していただいたのに申し訳ないが、やはりLPで聴くことにしよう。
それにしても、ひこうき雲、のLPにはまだ会えていない。さすらいのLP探索旅は、まだ続きそうだ。
ひこうき雲との出会いは高校生時代。
鼻濁音が有ったり無かったりする独特の歌い方と、歌詞の中にはっきりと「死」という語を入れながらも全然暗く沈むこともない歌詞の構成、そのどちらもがそれまでになかった新しい歌の世界だと感じた。
高校生になって間もなくの頃、お世辞にも ”じょうず” とはいえないあの歌声がラジオから流れてきて、なんだかグッときて耳を引きつけられたのが始まりだった。
そのラジオでの出会いから、隠れファンとしての期間も、もうすぐ半世紀になろうとしている。
”荒井” 由実が、いつのまにか”松任谷”由実になっていたのも、知ったのはだいぶ経ってから。大学時代もずっと聴いていたのに、そんなことには興味が無かった。いつも彼女の作品を編曲してくれていたあのクルマ好きカーグラ(Car Graphic)青年の松任谷正隆さんと、いつの間にか結婚していたのだった。こっちにとって、そんなことは別にどうでも良いことだったが、彼女の曲一つひとつをまさにドンピシャの雰囲気に纏わせていく編曲のうまさを思えば、二人は切り離せない関係になっていたのだと腑に落ちた。
だいぶ前の記憶だが、細野晴臣さんたちのラジオトークで耳にしたところによると、ひこうき雲は、デモテープで彼らの元に届いたそうだ。誰かが持ち込んできて、集まった何人かがそれを聴いてすぐ、これ面白いぞ、となったのだという。彼らが曲を仕上げて世に出し、荒井由実という新人が、数年の内に独特の世界をつくりあげ、「ユーミン」というブランドに成長した。そういう意味でも、ひこうき雲という作品こそが、ユーミンの始まりだったのだ。
細野さん、松任谷さん、たちのような個性の強い達人たちが寄ってたかって彼女の歌詞とメロディーを咀嚼し、その世界観を個性的な楽曲に仕上げていった。その作業は、さぞかし楽しかっただろう。一つひとつ楽しんでアレンジしていったことが彼女の曲の幅広さの元になっていることは、間違いない。
天才が産み出してくる原曲を、これまた天才の集まりが、ああでもないこうでもないといじくりまわす作業。それが、50年も続いてきたということだ。すごい、の一言だ。
経済状況の変動で世の中が浮き沈みする中で音楽の流行もいろいろと変化しているが、ユーミンのブランドが独自の地位を築き、維持し続けられているのは、天才の原曲をアレンジの天才たちが音作りの技で商品化するという、一連の「エキスパート事業」になっているからに違いない。
ユーミン・ブランドがまだまだ続いていくことを期待している。
考えてみれば、ユーミンの楽曲については、いろいろ思うこともある。半世紀記念というせっかくの機会だから、これから少しずつ取り上げてみたいと思う。
次回は、今はほとんど使われなくなってしまった「紙のメール」をとりあげようか、と思っている。