理系夫婦Y子とMの昭和から令和まで

都内で働く薬剤師Y子と、パソコン・DIY・生物などに詳しい理系の夫M。昭和30年代から今日までの実体験に最新の情報を加え、多くの方々、特に子育て・孫育て世代の皆様のお役に立つことを願いつつ発信する夫婦(めおと)ブログです。

つま 長すぎるじゃろぉ~~~!

 Mです。

 日本人の多くは刺身好きだと勝手に思っている。
 世界各国から訪れてくれる観光客の皆さんにも、この国独特の食習慣と言っても良い生魚料理「SASHIMI」はかなりの人気だ。
 かくいう小生も好きだが、Y子はさらに数段刺身好きだ。

 そんなY子が、最近よく嘆いている。というか、怒っている。
刺身のつま大根が長すぎる~~~! と。

 先週もそんなことがあって、もの知らずのMは、「つま」について初めてちゃんと調べてみた。
 と、なんと、これまでずっと「刺身」を夫に見立ててその支え役、引き立て役として「妻」なのだと思い込んでいたことが全くの的外れだったことを知った。「妻」ではなく、「褄」だった! そしてこの字は、端の意味もあって、添えるモノを意味していると知った。

  

   ↑ 絶妙な褄と刺身の盛りつけ ;小田原みなと食堂さんの画像を拝借

 

 そんな「褄」について、クラシルさんの解説がとてもわかりやすかったので紹介させていただく。
  下記サイト参照。
  https://www.kurashiru.com/articles/9f6088d7-e9cc-440d-8beb-b95baa3a0d8c

 それによると、褄は、刺身の横や手前に添えられるものの総称、なのだそうである。そして、褄にも「敷き褄」と「立て褄」があって、千切り大根のように刺身の下に敷くモノと、穂紫蘇のように刺身に立てかけて見た目を引き立てるモノ、という役割分担があるのだそうだ。さらにまた、大根の辛み成分であるイソチオシアネートが殺菌作用を持つため、傷みやすい生魚を安全に食するためにも敷き褄は重要だったのだ。
 江戸のまちに銚子や野田の醤油がやってくるようになって一気に広がった刺身文化は、考えようによっては後の ”大根の敷き褄”に支えられて発展してきたのかも知れない。主役の傷みを抑制するとともに、どうしたって生臭さがある海産物を食べるときの箸休めとして、さっぱりとした食感と味で食欲をそそる役目を果たしているのである。

 なのに、である。
 昨今のスーパーで売られている刺身パックは、この大根褄の役割を単なる「敷物」としてしか見ていない。
 過去の大根褄は、程よい長さに切られていて、ひとつまみずつ巻かれていることさえあった。ひと切れの刺身の後でひと箸の大根褄。このセットが、口直しを挟んだ箸運びとなって、刺身というメニューを確立させたと言っても過言ではないと思う。
 ところが単なる敷物となってしまった大根褄は、もう箸休めの役を果たせない。とにかく長い! 大根一本は30~40cm程度である。この前見たパックに敷かれていた大根褄は、優に30cmを超えていた。つまり、大根一本をそのまま千切りにした感じ。ここまで長いと、一箸で救うなんてできないし、そもそも、その長さの褄が束になって敷かれているのだから、食べ物じゃないぞ!とでも言っているかのよう。どうやってあんな長い千切り大根を作るのかに興味もあるが、今回は主眼が別なのでまたの機会に。
 とにかく、もはや、食べる物ではなくなっている。
 魚肉の腐敗防止としての役は果たしているのだろうが、大切なもう一つの役割である食材としての刺身の相棒役を放棄してしまったのである。

じつに寂しい。

 Y子もそうだが、Mも千切り大根をつまみながら食べ進める刺身が大好きである。30cm超の褄をどうにか挟みあげては食べるけれど、どうにもやりきれない。やはり、ちょこっとつまめる工夫を捨ててほしくないものである。

 ファミレスのテーブルに残されたものを見て驚くことしきりなのだが、メニューの皿に野菜だけがそっくりそのまま残されていることが増えている。どうやら、野菜、特に生のものは食べる必要が無いものに分類されてきているらしい。
 我が家の家族は、すこぶる野菜好きである。だいぶ前の話だが、とんかつ屋さんで千切りキャベツおかわり自由の店を見つけ、家族4人で何度もキャベツおかわりをお願いしてビックリされたことがある。きっと、そんな客はもう居ないのかも知れない。

 そのうち、レストランの皿には野菜の写真がプリントされていて、生野菜なしで見た目を整えたメニューが並んでいくかも知れない。それどころか、3D プリンターで野菜を載せた状態の皿を作って、そこに焼き肉やハンバーグをのせる店が現れるかも知れない。

ここのところ野菜が高値続きだが、それでもやはり、野菜は食べたい。

大根褄は食い物だぞ~~! スーパーさんよ。

都内のおかしな駐車メーター事情 その2 そして・・・

 Mです。

 300円入れて60分駐車OK。でも、超過したら罰金だよ! そんな規則の駐車メーター。

 前回、駐車監視員に直接聞いた驚くべき事実。「未納は我々の管轄ではないので・・・」
そして警察官が見つけて対応すれば、たとえ10分だろうが駐車違反切符になるかも知れないという矛盾。みんなで同じ程度の速度で走っているのに、たまたま運悪くスピード違反で違反切符を切られてしまうの同じで、見つかってしまったからという偶然に支配されている交通法規の実施要件は、それを受ける側からすれば憤懣以外の何ものでもない。
 笑い話のように言われる「交通切符切りのノルマがあるから年末、年度末は要注意だよ」という巷の注意喚起も、あながちウソではないなぁと思えてしまうのが、何とも悲しく腹立たしいのである。

 前回記した未納駐車頻発地域を、その後もちょくちょく観察している。そしてついに、最高未納駐車時間を目撃した。

なんと597分!

  Mがチャリで走り回ることが多い秋葉原近辺では、秋葉原駅南の山手/京浜東北ガード下が未納駐車多発場所である。警察署がごくごく近いにもかかわらず、100分超えの未納駐車を頻繁に目にするのはなぜだろうと思う。灯台もと暗しのことわざではないが、警察直近はかえって目が届かない、ということなのか。とはいえ、小心者のゴールド免許者Mは、そこでも300円を投入してしまうのである(笑)。

 ところで上の長時間未納駐車は、この場所から少し離れた神田駅周辺の未納多発路地。駅から近く、車も人通りも多い。Mもよく走り回っているが、パトカーが通過するのに出くわすことが何度もある。でもしかし、そのときでさえ、パトカーは駐車メーターなど気にもせずに通過していく。未納ゼロだからではない。ちゃんと(未納)なのに通過していくのである。思うに、警察官は皆「性善説」を基本にしているに違いない。あるいは、通過していく先に「大事件」が待っているから、駐車違反程度にかかずらわっている訳にはいかない、のだろう。だから、10時間近い未納駐車もおとがめ無しになるのだ・・・
 とはいえ、ここで別の疑問も生じる。駐車メーターって、24時間稼働じゃないよね!ということ。多くの場所では、メーターが働き出すのは7時から9時で、夜も9時前にはランプが消えて稼働終了になっていると思っている。だとすると597分って、いつから停めているの?

 上の写真を撮ったのは17時すこし前である。およそ10時間前となると朝7時から停めているということになる。わざわざメータ稼働直後に停めたとも思えないので、たぶん前夜から停めっぱなしだったのだろう。運が強いというか、とにかく違反切符無しで10時間、恐れ入ります。

 たまたま見つかったのが運の尽き、という交通切符の有り様はいかがなものか、と思ってしまう。警察官が足りないから見逃しも多い、というのなら、それこそ規則を変えて駐車監視を委託する企業にも未納取り締まり権限を与えるようにするとか、実質的なメーター管理にすべきだと思う。

 

 ところで、駐車メーター観察を楽しんでいる(?)Mは、つい先日まで行われていた秋の交通安全週間とやらでの交通警察の動きにも大きな違和感を感じていた。

 有名人を雇って「自転車に乗るときもヘルメットをちゃんとしてね!」とイベントを行っていた一方で、原付扱いだとしている電動キックボードや電動自転車に対しては、ナンバープレート取り付けまで義務だとしているくせにヘルメット無しでも良いと言っている。しかも、海外製でネットで簡単に変えてしまう電動自転車の多くはナンバーも付けていないし、時速40キロを明らかに超える速度でノーヘルメット走りなのだ。

 

 交通安全規則って、いったい誰のためのものなのだろうか。

 

 道路上で一番強いのは歩行者で次が自転車、と思っていたが、いまの状況はそうでもなくなっている。歩行者に害を与えそうな電動移動ツールが、その普及を図りたいビジネス集団の思惑によって自転車と同じ位置に入り込み、歩行者にも自転車にも脅威になっているという現実が見えてきている。

 交通規則を守らせる側が企業への便宜を図っているというあってはならない構図が、想像以上に都会の道路に黒いシミを広げてきていると思うのだが、どうだろう・・・

お粗末! ガックリくる日本の断熱事情

Mです。

 気温35℃以上が頻発したこの夏以降、9月半ばになっても晴れた昼には猛暑日の基準に迫る気温に晒されている。
 ラジオやテレビのニュースでは、連日、冷房を適切に使って特別な事情がない限り屋内で過ごすように、と注意喚起を続けている。そんなこと言われても、仕事を持っている人々にとって外出しないわけにはいかない。外出すればしたで、路面付近温度は40℃を超えるなかを歩き回り、たどり着いた仕事先に入れば28℃設定の冷房環境にホッとし、終わればまた40℃環境に出る、の繰り返し。まるで、温度ストレスの実験に晒される動物のごとく。熱中症にならずとも、温度ストレスで身体はガタガタになってしまうのだ。

 もはや日本は亜熱帯、という言い回しが的を射てしまっている現状で、ニュースで繰り返されている「涼しい環境」を自宅で実現するのはもう簡単なことではなくなっている。
 冷房装置があるのに使わないで熱中症で死亡した・・・という事故を何度も聞かされるが、高齢者にとっては実のところ”さもありなん”な事例だということを知らなくてはいけない。ここ数十年で多くの家庭が冷房装置すなわちエアコン装置を取り入れてきた。ところが、冷房を嫌うお年寄りは少なからずいて、その原因のひとつに日本の住宅構造にあると感じている。
 冷房という行為自体が嫌いなお年寄りがいることは事実だ。なにしろ、若い頃は団扇、扇子と扇風機こそが冷房手段であり、当時はそれで十分だった。部屋自体を冷気で満たすという発想が不要だったのだ。そのうえ、家屋自体も断熱性無視の通気性が良い構造なので、そもそもそこに取り付けたエアコンが理想の冷房環境を作れるか、というと甚だ疑わしい。事実、小生の母親(92歳、独居)の家も、窓は大きく間仕切りは障子と襖だけ。そんな家の一部屋の鴨居に寄りつけてあるエアコンは、つけられたは良いが実際に稼働しているのを見たことがない。本人曰く、点けたって部屋は冷えない、という。それもそうなのだ。周りじゅう隙間だらけで冷気を囲う構造がないのだから、エアコンと言いながら冷たい空気を吹き出す扇風機としてしか機能しない。しかも、熱い空気の中を進む冷気は、3メートルも進めば混和してただの室温風になってしまう。そんな状況では、冷房なんて意味がない、嫌いだ、となってもちっともおかしくないのだ。それなら扇風機に当たっていた方がまし、となる。
 もちろん、死亡例で明かされる環境はアパートの一室であることが多く、年金暮らしのお年寄りが冷房はお金がかかるという現実的な感覚からエアコンを使わなかったのだろうという推測も間違っていはいない。とはいえ、効率の悪いエアコン、というイメージができあがってしまっている要因が、住宅の構造にある、というのは疑いのない事実なのである。

 今日見つけたinfoseekさんのニュースにまさにこの問題点を鋭く突いている記事があった。
  https://news.infoseek.co.jp/article/goldonline_63410/

 なんだよ、ニッポンってこんなにお粗末なのかよ! と、ガックリくる記事である。
 技術先進国と唄ってきたニッポンは、亜熱帯化が進む現状のなかにいて、なんと世界のなかで”超”断熱後進国なのだ。

 Mは、断熱に関するノウハウを使ってメシの糧のひとつにしている。だから、断熱という行為にはそこそこ敏感で、我が家は断熱建材の先駆けにもなっているヘーベルハウスで建てた。10年前まではその建築構造だけで十分暑さ寒さが凌げたが、最近になってやはり夏の暑さには耐えきれなくなった。エアコン無しだった我が家にも、3年前ついにエアコンを装備した。とはいえ、700W 級の窓用エアコン一基なのだが、自分としてはそれでも悔しい思いが残る。この一基で現状20畳以上を十分涼しく保てるので、家の構造主体であるヘーベル板の性能に感謝なのだが、この対応の際にこれじゃダメだよな、と感じざるを得なかったのが窓構造だった。
 今回の記事は、まさにこの問題に対する指摘だったのである。

  ヘーベルハウスは断熱家屋だと唄ってきている。しかし、窓をはじめとしたヘーベル板の無い構造部分に関して言えば、アルミとガラスだけに頼った”高”熱伝導構造を採用していた。30年前の建築当時では、それでも十分に高断熱家屋だったのだが、温暖化が騒がれるようになって不十分さが認識され、2重窓を推奨する仕様を取り入れて「機密家屋」化してきた。その仕様で確かに断熱性能は上がっただろうが、基本はアルミ枠にはめ込むガラス構造をいじっただけで、本質的には何も変わっていない。むしろ、機密性が高まることで冬期の暖房時に発生する屋内の結露とカビの発生について見れば、屋内環境の悪化に繋がった面もある。アルミは、PCの心臓であり脳でもあるCPUの発生する熱を放散するための高性能熱伝導ヒートシンクとして使われている素材だから、この金属を窓枠に使っていること自体が、本来NGなのだ。それをいち早く認識したヨーロッパは、建築の基準に窓枠の断熱効率を追求し、熱伝導率の低い樹脂製窓枠を推奨するようになった。(下図参照) 木造家屋中心の日本で使われてきた木製窓枠は、樹脂枠に大きく劣ることがなかったが、アルミサッシ全盛の建築業界ではもはや使えない素材となってしまったために廃れてしまったのである。

  世界的に見たこの事情は全く知らなかったのだが、ついに窓用エアコン設置に舵を切らなくてはならなくなった時、Mは窓の断熱も行わなくては無理だと気づき、必要な場所すべての窓にアルミ反射材貼付の断熱シートを貼り付けた。ドイト店で売っている大型の断熱シートである。アルミ反射面を外に向けて、アルミ枠窓全体をシートで覆ってしまった。引違い窓なので開閉に若干の無理がかかるが、貼り付け方でどうにか凌げるし、むしろ断熱のためには開け閉めしない方が良いので、もはや閉めっぱなしの方が多い。アルミ枠とガラスの台所窓やトイレ、洗面所の小型窓には、アルミホイルを貼り付けた発泡ポリプロピレン板(20mm厚)をきっちりとはめ込んでしまった。これらの追加作業の効果は抜群で、そのおかげでたった700Wの窓用エアコンが20畳あまりの空間を冷やしてくれるのである。

 断熱という行為は、単純なだけにその効果が目に見えてわかる。家の構造を変えることはかなりのコストを要することだが、断熱が行き届いていない箇所を手に入る材料で補うだけで高い効果を得ることが出来る。
 たとえばドイト店の資材コーナーでは、1000×2000mmサイズの断熱材料が何種類も売られている。発泡スチロールの薄板もあれば発泡ポリエチレンや発泡ポリプロピレンの板も売られている。断熱性能で言えばスチロールが最も効果が高いが割れやすい、欠けやすいという弱点がある。性能は若干落ちるが他の2材料は壊れにくいメリットがある。プラダンと呼ばれているプラスチック製段ボール素材もそこそこ断熱性がある。そんな材料たちに台所のアルミホイルを貼り付けると、なかなかの断熱材料に変身するのだ。

 家全体を改造するのは難しいが、特定の部屋だけをもう少し快適に、くらいなら、工夫次第でけっこうな改造ができる。

 ますます厳しくなるだろう気象条件のなか、自分で出来るプチリフォームを試してみてはいかがか。これらの工夫は、冬の室内保温にも同様の効果をもたらすのだから。

熱中症はヒトのみにあらず! セミよ おまえもか !?

Mです。

暑い、暑すぎる!

 年々、夏の厳しさが増している気がするのは自分だけではないと思う。
 田舎のみどり多い地域でさえ、2024年は35℃が珍しいことではなくなっている。吹きすぎる風がいくらかは涼をもたらしてくれるが、それでも外仕事をするには危険を感じる。ましてや、コンクリートアスファルトで地表が覆われ、角柱構造物の内部を冷やすために排出される熱がこもる都会部ともなれば、ヒトの背丈付近の外気温は軽く40℃を超している。場合によっては50℃を越えているかも知れない。チャリで走り抜ける時の吸気が気道を焼きながら肺に入っていく感覚は、もはや灼熱地獄とはこのことか、と思わせる。

 これも年々強く感じていることだが、梅雨はもはや東北地方以北にその中心を移しているように思う。特に今年の梅雨は、いわゆる梅雨前線と呼び慣わされている南西から北東に斜めに停滞して長く雨を降らせ続ける気象条件が東北地方に長く留まり、山形県秋田県地域に多大な被害をもたらした。氾濫するなんて思ってもいなかった、と山形出身の知人が言うように、最上川さえ水を溢れさせてしまったのだ。その長雨は北海道にも及んでいて、「梅雨がない」と言われ続けてきた彼の地にも、これまでの関東以西の梅雨と同じような気象現象をもたらしていたように思える。NHKの報道にも、今年に限っては「梅雨のない北海道にも」という表現が使われていなかったように思う。
 これまでの常識的な梅雨は、もはや日本列島には存在しないのではないだろうか。もちろん気象庁さんはなかなかそんなことは言わないのだろうけれど・・・
 
 そんな気象条件のせいなのか、ここ数年気になっているのが6月以降のセミの発生時期のおくれである。

Wikipedia ニイニイゼミ より拝借


 もの心ついてから半世紀以上、Mは野の虫たちと近しく交わってきた。ムシ小僧というわけではないが、草木も含めていきもの全般に興味が深いので、いろいろな生きものたちとつきあい、特に目にとまりやすいムシたちを見てきている。若い頃4年間過ごした札幌で、本州とかなり違うムシたちを目にしたことが更に刺激となり、生息環境とムシたちの出現次期に注目するようになった気がする。関東に定住してから40年は、夏のムシたちの出現時期の変動を、注視というほどではないけれど、毎年気にしながら観察してきている。
 そんななか、去年気になったのがニイニイゼミの出遅れだった。
 梨畑の多い地域で育ったので、セミの個体数がめっぽう多い環境が身にしみていて、毎年6月に入ると何となくニイニイゼミの初鳴きに注意を払ってきていた。それまでの経験で、ニイニイゼミは6月半ばが自身の常識だった。しかし去年、それが10日ほど遅れた。年々梅雨時期が不安定になってきているとは感じていたが、それでも6末になってニイニイゼミが鳴き出すという経験がなかったのである。そして今年、梅雨が来ないのではないかと思っている中で彼らの初鳴きを聴いたのは、なんと7月に入ってからだった。
 セミたちの出現は地温の積算と関係しているのだろうが、5月から暑い日が続くなど、決して夏前が低温に晒されていたわけでもない。むしろ稲田の生育を見れば、高温つづきで生育は前倒しで来ている。早場米地帯として知られている千葉県北東部では、通常なら盆明けに始まる稲刈りが、今年は8月10日を待たずに始まったそうだ。現に、その地域に墓参りに行った昨日見た稲田はすでに2割ほどが稲を刈り終えており、中にはひこばえで田んぼが緑に染まりはじめているところさえあった。今まさに稲刈り中という田んぼもそこここに見られ、盆明けには半分以上の田んぼが収穫済み、となりそうだった。
 こんな状況から考えると、ニイニイゼミの初鳴きが遅れている理由がわからない。
 ほかのセミについても、アブラゼミの声を聴いたのが8月初旬、ほぼ同時期にミンミンゼミが鳴きだしたのだが、これも、記憶にある鳴き初め時期より1週間から10日遅くなっている。これまでなら盆時期には既に聴いているはずのツクツクホウシをまだ鳴いていないし、夕刻のヒグラシ大合唱も聴いていない。総じて遅れているようなのだ。

 はてさて、気温が高めに変化してきている一方で、セミの出現が遅めに推移していることはどう関連しているのか?
 ちなみに、我が家周辺の自然環境はほとんど変化していない。木々の伐採が進んでいるわけでもなければ草地が減ったわけでもない。強いていえば、セミたちが幼虫時代を過ごすはずの人の手が入った山林、つまり下草刈りなど人の手がちゃんと入る場所が減ってきていることだけは確実だと感じている。
 だとすると、セミたちの個体数が大きく減少しているために鳴き初めを耳にする機会が減っていて、相応の個体数が揃うまで聴き取れないでいる、ということなのだろうか、と想像している。

 たった数年で結論めいたことは言えないだろうが、これから5年ほどは、もう少しきちんとしたデータ取りをしてみようかと感じている。

 関東以西は、もはや亜熱帯なのかも知れない。

 30年ほど前までは、北海道は米は作れても旨い米は獲れない、などといわれていた。が、今は違う。東京で旨いと評判のおにぎり屋さんで、北海道米を指定しているところがあるという。むしろ、いちばん旨い米が獲れるといわれていた新潟で、酷暑のため質の低下が危惧されているという話を聞くのである。

 地球規模の気象変動が進み、それが動植物界に目に見える変化を起こしはじめている、というのがまさに今なのかも知れない。

 そういえば、トンボが群れ飛ぶ夏の風景は、もはや期待できない。実感として、トンボたちの生息数は、こども時代の1割ほどしかないような気がしている。

 自然保護、環境保護、と声高に叫ぶのは性に合わないが、気候変動は仕方のないこととしても、生活環境内の自然はどうにか保ちたいものだだと思っている。

都内の おかしな駐車メーター事情

Mです。
駐車監視員の業務範囲改正を求む!

 都内をクルマで動き回ることも多いので、そのたびに苦労するのが駐車場探し。大型ビルの並ぶ都心部ではもっぱら駐車メータ頼みだし、都心部から外れた地域では幹線道から少し入り込んだ路地などにまばらに存在する小さな駐車場にお世話になることが多い。都外なら、少し遠方になれば一日600円なんて駐車場もざらにあるが、少なくとも23区内ではそんなことはあり得ない。
 行動範囲の千代田区台東区あたりだと、山手線至近なら4時間で2~3千円が相場だし、東にずれて隅田川に近づくと同程度の料金で駐車可能時間が8時間に変わっていく。さらに隅田川を渡って墨田区に入ると、今度は8-19時1,000~1,500円のように一気に割安になっていくので、なるべく安い場所を探しておいて安い順に訪ねていくことになる。

  そんな駐車場難民としてどうしても理解できないのが、駐車メーターで違反シールを貼られるパターンの不可解さ。
 最近はすごく注意しているので貼られてはいないが、もう5年ほど前になろうか、秋葉原で部品買いして戻ったら3分オーバーで違反シールが貼られていたことがある。誰が貼ったのか、駐車監視員なのか警邏の警官だったのか? いずれにしても、ただただ運が悪かったに尽きる。だって、隣のクルマは未納で65分経過しているのにおとがめ無しだったのだから。オレのクルマってそんなに目立った?

 数日前、神田の薬問屋さんが集まる界隈の細道で、おかしな光景に出くわした。ハザードランプを付けて停車し、ハッチを開けて持ち物の整理をしていたのだが、後ろに2カ所あっていずれも枠内駐車していた駐車メーターで、片方の時間オーバー(40分オーバー)に駐車監視員が違反シールを貼っていた。が、よく見ると、隣のクルマは未納ランプがついたまま340分を表示しているのにシールを貼らないのだ。なんじゃそれ!と思い(実は憤慨しているのだが)、二人組で仕事している監視員の一人に、「なんで未納で長時間止めている車がセーフで、40分オーバーだけに違反シールなのか!?」と聞いたのであった。その応えに唖然、「未納は我々の管轄ではないので・・・」とのたまい、ニヤニヤ笑いで去ってしまったのである。

 そんなバカな! である。

 モヤモヤしながらも放っていたが、連休の恩恵で時間があったのでネットで調べてみて更にビックリ。駐車監視員の職務である違法駐車には、駐車禁止区域などでの駐停車の監視と駐車メーター関連の違反駐車監視があるのだが、メーター関連には驚くべき「穴」があるのだと知った。

※関口法律事務所の方が解説している下記サイトを見ていただくと理解できる。
 https://sekiguchi-law.com/post-4086/

 なんと、駐車メーターに関する駐車監視員の業務範囲には、制限時間違反・指定方法違反(不作動違反は含まない)しかないということなのである。つまり、未納状態は、カッコ内の不動作違反に相当するため、駐車監視員は取り締まることができないのだ。それが、ニヤニヤ笑いで立ち去ってしまった監視員たちの壁だったのだと知った。

 これを知って、モヤモヤ、いや、むしろムシャクシャして来た!v
 では、未納でメーターを使っている車は駐車違反にならないのか!というと、そうではない。駐車監視員の職務範囲には入っていないが、本来の警察署員がおこなう取り締まり対象にはなっているので、おまわりさんが見つければ切符を切る、のである。

 とはいえ、警察官の人員不足があるから作らざるを得なかった駐車監視員制度だから、署員がメーター違反のために歩き回ることはごくわずかだろう。新人教育で交通課の職員が二人連れで動き回る新年度1ヶ月ほどの現場研修期間は「キビシク」取り締まられるのかも知れないが、それを過ぎてしまえばまずは安心、という状況なのかも知れない。実を言うと、5年ほど前の駐車時間オーバーを見つけられたのも4月だった。

 駐車監視員の採用は、各警察署長の権限で行われる民間委託だ。ならば、その職務範囲にメーター管理の徹底を入れたらどうなのか。荷下ろしでハザードランプを付けたままドライバーが行ったり来たりしている隙に急いで写真を撮って駐車違反シールを貼る行為は、さすがにウンザリである。それよりも、決まった場所にある駐車メーターをしっかり管理してくれれば、駐車スペースが足りないために起こっている短時間荷下ろし駐車の解消にもつながり、まっとうな駐車監視になると思うのである。

 毎日のように通る場所にある駐車メーターには、週のうち3日は同じ車が超長時間駐車をしている。未納で340分というくだんのメーターである。一度は520分という時もあった。
 はてさて、最高記録はどのくらいまでいくだろうか・・・

交通法規は誰のため?

Mです。

東京の道路は、危険がいっぱい!
 
 とは言っても、クルマがウヨウヨしているから危険、という意味ではない。むしろ、適度に歩道が整備されていて、適度に路面状況が良いことでかえってコワいのだ。

 以前、電動キックボードが一般道での使用認可されたときにも触れたのだが、田舎のでこぼこ道では使えない楽ちんツールが、安易な使い方をされるために都内のような良好道路環境下ではけっこう危ないツールになっている。

 使用者がかなり増えた電動アシスト自転車もしかり。グイッと踏み込めば、さして脚力がないご婦人でも、信号が変わったとたんに横断歩道にサッと飛び出して歩行者をすり抜け、そのまま歩道を突き進んでいく。そんな光景が、もはや日常茶飯事。スポーツサイクルを駈るお兄さんが車道の端を進むのと同じ速度で、歩道を突っ走ることができてしまう。時速25Km/Hrまではアシストしてくれるので、とにかく加速度が半端ない。ハンドリングが巧みな人ならそれでも大丈夫なのかも知れないが、どれだけの電動アシスト運転者がその域に達しているのかと想像すると、ちょっとコワい。

 その電動アシスト自転車のように見せかけて、実は「電動自転車」があたかも適法であるかのようにしてネット販売されている現状が、先々週の新聞紙上で取り上げられていた。

参考;朝日新聞、10月26日朝刊社会面

※    実物はこんなの

   

 だいぶ前から、太いタイヤでフレームが異様に太く角張った真っ黒なアシスト自転車だろうと思われるモノを目にするようになったが、やはり違法モノだったのだとわかった。

 なにしろ、ほとんどペダルを踏んでいないのに原付自転車(原付バイク)と同じかそれ以上の速度で車道を走るのである。たいていは若いお兄さんで、黒塗り車体に似合う若干いかつい感じの人が多い。さも自慢げに車道を突っ走っていく。少しでもペダルをこいでいるマネをするのはかわいげのある方で、まったく踏むこともせずにただただスピードを上げていく輩は、何とも憎々しい。あきらかにスロットルを回して加速しているのが見え見えで、なんで許されているのか不思議でならない。原付バイク以上の速度で走りながら、もちろんノーヘルメット。警察は、交通安全週間のたびに都内各所でバイクの検問を設けてバイク乗りを監視しているが、一度として電動自転車をチェックしているのを見たことがない。それどころか、バイクを止めて免許提示を求めている警察官たちの脇を、黒い「電動自転車」がペダルで走ってま~~す、と緩くペダルをこいで通り過ぎていくのを見たのが何度あることか・・・ つまりは、一旦許可してしまった交通ツールについて、違法なツールにもかかわらずチェックされずにいて、規則の安全な運用が損なわれている現実がある、ということだ。

 警視庁のページでは、「電動モビリティーの交通事故防止」というサイトでこの手のツールをはっきりと自転車ではなくバイクであると定義し、ナンバー取得が必要としている。でも、実際には取り締まれていない!

※「電動自転車」って自転車?バイク? のページ
https://www.keishicho.metro.tokyo.lg.jp/kotsu/jikoboshi/electric_mobility/pedal.html

 これは、電動自転車に限ったことではない。後に認可されてだいぶ貸し出しステーションが増えてきた電動キックボードも同様。ヘルメットは努力義務で、時速25Km/Hr以下、6Km/Hr未満なら歩道もOK、というが、後方確認のミラーを付けることになっていたはずが、それがないものも走っているし、歩道を明らかにアシスト自転車並みの速度で走っているのも見かける。
 結局は、こっちの規則も「ザル適用」なのだ。

 自動車の運転免許を取るとき、そして更新するときには、みんな毎回それなりの経費をかけて免許の維持をしている。その一方で、自転車と同格だからとほとんどノーチェックで済まされている電動ツールが、提供する事業者に甘く、発生するかも知れないトラブル被害者にとって無慈悲な状況を生んでしまう現状を、交通法規を定めてそれを運用する側はもっとしっかりと捉えてもらわないと困る、と思うのだ。

ユーミンの世界 その2 " 万年筆 "

Mです。

 自身の生活の中で、最近めっきり減った行動のひとつが文章を手書きすること、である。
 毎日数千字の文字を書いてはいるが、ほぼキー入力だ。気づいたこと、思いついたこと、アイデア、なんぞを都度付箋や雑紙にボールペンで走り書きしておく以外、手書きすることはほとんど無い。運転中に思いついたことは、デジタルレコーダーに吹き込んでおいて、後から聞き直して文字に起こす。それも、直接PCで打ち込んでしまうから、ここでもペンは使わない。とにかく、とてつもなく便利なワープロソフト(初期からずっと一太郎系)のおかげで、文章作成の速度はかなり上がった。あれっ、どんな字だっけと思い出せない漢字も、辞書引きすることなくほとんど済ませてしまえるから、効率がめっぽう上がったのだ。
 その一方で、手書き自体が難しくなってしまったのも事実。遅いし、漢字を思い出せないことがしばしば。横文字の単語も、あれっLだっけRだっけ?なんてことがしょっちゅうだから、入力してからワープロさんに修正してもらえる有り難さは、もう絶対捨てられない。

 こんな生活の変化で全く使わなくなってしまったモノのひとつが ”万年筆 ”だ。
 学生になった頃は、ちゃんとモノを書くときは万年筆、それ以外はボールペン、がマイルールだった。同じようにしていた人も多かったと思っている。
 万年筆で書かれた文字には、何となく品があって落ち着きがあった。液だれがしばしば起こったボールペンは、素早く使うには便利で、消えることもなかったから、殴り書きできるペンとして重宝していた。学生時代の実験ノートも、鉛筆とボールペンが入り交じっていて、データはボールペンで記すことを守っていた。改ざんしないという意思表示と、消えないという安心感の二つがこもっていたのである。そして、まとめて論文にするときには万年筆の登場。修正液で消す頻度をどれだけ少なく出来るかを自分に課しながら、じっくりと頭の中で文章を練りつつペン先を滑らせる摩擦音に酔っていたのかもしれない。それだけ、万年筆は「本物」を作る時のツールとして重要だったのである。

 ああそれなのに・・・・
 もう30年以上、Mの万年筆は引き出しの中に閉じ込められたまま。多分、インクが乾いて固まってしまっているから、使うとしたらペン先を外して超音波洗浄器のお世話になるしかないだろう。復活させることは出来るだろうが、使うときが来るのかどうかは疑問。ちょっと使ってみたい気はするけれど、多分面倒になって引き出しに戻ることになるような気もする。常時使用しているポールペンが、今ではかなりの進歩を見せていて使い勝手が良いだけでなく、ほとんどの公式文書への記載がボールペン推奨になっているほどだから、社会的認知が行き届いてしまった。趣は格段に違う、とはいえ、いまでも万年筆を常用している方がどのくらいいるのだろうか、と疑問に思う。松本清張氏が極太の万年筆を持ちながらたばこを吸っていた写真を見た記憶があるが、作家先生方でも、万年筆派はだいぶ減っているのではないかと想像するのである。

 趣がある、と書いたが、まさに万年筆の文字はボールペンとは全く違った個性があると思う。ボールペンは紙にボールチップを押し当ててインクを出させるから、筆記具としては筆圧がかかる鉛筆に近い。一方、万年筆は、それ以前の羽根ペン時代からの系譜に連なるので、筆圧は掛けない。ペン先の隙間に溜まったインクを滑らすように紙に載せていく感じ。力を加えることなく、ペン自体の重さだけを使って指は前後左右の方向だけをコントロールする書き方なのだ。この動きのクセが人それぞれだから、万年筆の文字にはその人特有のカタチがあっておもしろかったのである。肩の丸みが暖かさを感じさせる字、書き始めと跳ねが剛胆なゴツい文字、流れるように続く優しい文字、などなど。Mの万年筆文字は、一生懸命書いたことは分かるがどこか堅苦しい文字で、万年筆を使いこなせていた人のものではなかった。自分の文字を作りたい、と思っていたのに、そうなる前に万年筆を引退してしまった。

 筆圧を必要としないから、万年筆ならどんな紙にでも文字を書くことが可能になる。
 例えば、喫茶店の紙ナプキンでも、滑らせるようにして文字を書くことが出来る。ボールペンだと、多分破れてしまうだろう。もちろん、えんぴつは論外。毛筆なら可能だろうが、これもまた事実上は論外だろう。

ブログ:大草直子の毎日AMARK より拝借いたしました。 
https://amarclife.com/blog/20210910/

 

 さてユーミンの世界。

 上記の紙ナプキンは、まさに「海を見ていた午後」の世界である。地元ではレストランの方より同名のラブホテルの方が認知度が高かったという噂もある「ドルフィン」の窓辺で、ソーダ水のなかを横切る貨物船を見ながら、忘れないで、と紙ナプキンに書いたのである。
 もちろん、万年筆で、とはうたわれていないが、ボールペンではないはず。なぜなら、「インクがにじむから、やっと書いた」のだ。そしてきっと、この万年筆のインクはブルーだったのだろうなぁと勝手に思っている。コンクブルーだと、なんだか堅苦しい気がするから。
 難しいけれども紙ナプキンに文字が書けた彼女は、きっと万年筆を使い慣れた人だったのだろう。いつも携えていて、ちょっとしたメッセージを残すにも紙切れにブルーインクでサラっと書く、そんな人なのだと想像した。
 薄めのブルーインクが窓の向こうに広がる海の青ににじむように消えていってしまう、そんなやるせない感情がゆったりとしたメロディーラインにのってフェイドアウトしていく名曲である。
 
 万年筆のインクは水でにじむ。
 「青いエアメイル」がこの世界。
 上述の曲と同様に、静かにゆっくり流れる名曲で、その印象を際立たせているのが雨の日に届いたエアメイル。今日か明日かと心待ちにしていたのだろう、ポストに落ちた音を耳にして急いで取りに行く情景が、せつなくてかわいい。エアメイルの宛名書きも送り主名も万年筆で書かれているのは間違いない。「雨に濡れぬうちに、急いで取りに行く」のである。目当てのエアメールだとわかって、彼女は差していた傘を肩で押さえて待ちきれず封を開ける。中にはクセのある文字が並んでいてせつなくて歩けなくなる・・・
 この恋がその後どうなるのかはわからないけれど、彼女はずっと彼のことが好きだと心の底から想っている。その想いがとてもやさしく、かつ、たくましい。

 これら2曲は、万年筆の文字が共通のキーになっていると思う。スマホ時代の今ではとうてい考えられない、想いを「自分の文字」にして相手に送る、という行為を、特徴のある文字を生み出す万年筆というツールが可能にしているのである。
 ボールペン習字なるものが新聞紙面でカルチャー講座に取り上げられているけれど、万年筆の文字は上手く書くことが本質ではなく、自分の文字を作ることに意味がある特殊なツールなのだ。

 そんな特殊なツールが、昭和を紡いできたユーミンの世界に生き生きと輝いているのだと思うと、なんだか不思議でもある。

 う~~ん、引っ張り出してみようかな、万年筆。