理系夫婦Y子とMの昭和から令和まで

都内で働く薬剤師Y子と、パソコン・DIY・生物などに詳しい理系の夫M。昭和30年代から今日までの実体験に最新の情報を加え、多くの方々、特に子育て・孫育て世代の皆様のお役に立つことを願いつつ発信する夫婦(めおと)ブログです。

ユーミンの世界 その2 " 万年筆 "

Mです。

 自身の生活の中で、最近めっきり減った行動のひとつが文章を手書きすること、である。
 毎日数千字の文字を書いてはいるが、ほぼキー入力だ。気づいたこと、思いついたこと、アイデア、なんぞを都度付箋や雑紙にボールペンで走り書きしておく以外、手書きすることはほとんど無い。運転中に思いついたことは、デジタルレコーダーに吹き込んでおいて、後から聞き直して文字に起こす。それも、直接PCで打ち込んでしまうから、ここでもペンは使わない。とにかく、とてつもなく便利なワープロソフト(初期からずっと一太郎系)のおかげで、文章作成の速度はかなり上がった。あれっ、どんな字だっけと思い出せない漢字も、辞書引きすることなくほとんど済ませてしまえるから、効率がめっぽう上がったのだ。
 その一方で、手書き自体が難しくなってしまったのも事実。遅いし、漢字を思い出せないことがしばしば。横文字の単語も、あれっLだっけRだっけ?なんてことがしょっちゅうだから、入力してからワープロさんに修正してもらえる有り難さは、もう絶対捨てられない。

 こんな生活の変化で全く使わなくなってしまったモノのひとつが ”万年筆 ”だ。
 学生になった頃は、ちゃんとモノを書くときは万年筆、それ以外はボールペン、がマイルールだった。同じようにしていた人も多かったと思っている。
 万年筆で書かれた文字には、何となく品があって落ち着きがあった。液だれがしばしば起こったボールペンは、素早く使うには便利で、消えることもなかったから、殴り書きできるペンとして重宝していた。学生時代の実験ノートも、鉛筆とボールペンが入り交じっていて、データはボールペンで記すことを守っていた。改ざんしないという意思表示と、消えないという安心感の二つがこもっていたのである。そして、まとめて論文にするときには万年筆の登場。修正液で消す頻度をどれだけ少なく出来るかを自分に課しながら、じっくりと頭の中で文章を練りつつペン先を滑らせる摩擦音に酔っていたのかもしれない。それだけ、万年筆は「本物」を作る時のツールとして重要だったのである。

 ああそれなのに・・・・
 もう30年以上、Mの万年筆は引き出しの中に閉じ込められたまま。多分、インクが乾いて固まってしまっているから、使うとしたらペン先を外して超音波洗浄器のお世話になるしかないだろう。復活させることは出来るだろうが、使うときが来るのかどうかは疑問。ちょっと使ってみたい気はするけれど、多分面倒になって引き出しに戻ることになるような気もする。常時使用しているポールペンが、今ではかなりの進歩を見せていて使い勝手が良いだけでなく、ほとんどの公式文書への記載がボールペン推奨になっているほどだから、社会的認知が行き届いてしまった。趣は格段に違う、とはいえ、いまでも万年筆を常用している方がどのくらいいるのだろうか、と疑問に思う。松本清張氏が極太の万年筆を持ちながらたばこを吸っていた写真を見た記憶があるが、作家先生方でも、万年筆派はだいぶ減っているのではないかと想像するのである。

 趣がある、と書いたが、まさに万年筆の文字はボールペンとは全く違った個性があると思う。ボールペンは紙にボールチップを押し当ててインクを出させるから、筆記具としては筆圧がかかる鉛筆に近い。一方、万年筆は、それ以前の羽根ペン時代からの系譜に連なるので、筆圧は掛けない。ペン先の隙間に溜まったインクを滑らすように紙に載せていく感じ。力を加えることなく、ペン自体の重さだけを使って指は前後左右の方向だけをコントロールする書き方なのだ。この動きのクセが人それぞれだから、万年筆の文字にはその人特有のカタチがあっておもしろかったのである。肩の丸みが暖かさを感じさせる字、書き始めと跳ねが剛胆なゴツい文字、流れるように続く優しい文字、などなど。Mの万年筆文字は、一生懸命書いたことは分かるがどこか堅苦しい文字で、万年筆を使いこなせていた人のものではなかった。自分の文字を作りたい、と思っていたのに、そうなる前に万年筆を引退してしまった。

 筆圧を必要としないから、万年筆ならどんな紙にでも文字を書くことが可能になる。
 例えば、喫茶店の紙ナプキンでも、滑らせるようにして文字を書くことが出来る。ボールペンだと、多分破れてしまうだろう。もちろん、えんぴつは論外。毛筆なら可能だろうが、これもまた事実上は論外だろう。

ブログ:大草直子の毎日AMARK より拝借いたしました。 
https://amarclife.com/blog/20210910/

 

 さてユーミンの世界。

 上記の紙ナプキンは、まさに「海を見ていた午後」の世界である。地元ではレストランの方より同名のラブホテルの方が認知度が高かったという噂もある「ドルフィン」の窓辺で、ソーダ水のなかを横切る貨物船を見ながら、忘れないで、と紙ナプキンに書いたのである。
 もちろん、万年筆で、とはうたわれていないが、ボールペンではないはず。なぜなら、「インクがにじむから、やっと書いた」のだ。そしてきっと、この万年筆のインクはブルーだったのだろうなぁと勝手に思っている。コンクブルーだと、なんだか堅苦しい気がするから。
 難しいけれども紙ナプキンに文字が書けた彼女は、きっと万年筆を使い慣れた人だったのだろう。いつも携えていて、ちょっとしたメッセージを残すにも紙切れにブルーインクでサラっと書く、そんな人なのだと想像した。
 薄めのブルーインクが窓の向こうに広がる海の青ににじむように消えていってしまう、そんなやるせない感情がゆったりとしたメロディーラインにのってフェイドアウトしていく名曲である。
 
 万年筆のインクは水でにじむ。
 「青いエアメイル」がこの世界。
 上述の曲と同様に、静かにゆっくり流れる名曲で、その印象を際立たせているのが雨の日に届いたエアメイル。今日か明日かと心待ちにしていたのだろう、ポストに落ちた音を耳にして急いで取りに行く情景が、せつなくてかわいい。エアメイルの宛名書きも送り主名も万年筆で書かれているのは間違いない。「雨に濡れぬうちに、急いで取りに行く」のである。目当てのエアメールだとわかって、彼女は差していた傘を肩で押さえて待ちきれず封を開ける。中にはクセのある文字が並んでいてせつなくて歩けなくなる・・・
 この恋がその後どうなるのかはわからないけれど、彼女はずっと彼のことが好きだと心の底から想っている。その想いがとてもやさしく、かつ、たくましい。

 これら2曲は、万年筆の文字が共通のキーになっていると思う。スマホ時代の今ではとうてい考えられない、想いを「自分の文字」にして相手に送る、という行為を、特徴のある文字を生み出す万年筆というツールが可能にしているのである。
 ボールペン習字なるものが新聞紙面でカルチャー講座に取り上げられているけれど、万年筆の文字は上手く書くことが本質ではなく、自分の文字を作ることに意味がある特殊なツールなのだ。

 そんな特殊なツールが、昭和を紡いできたユーミンの世界に生き生きと輝いているのだと思うと、なんだか不思議でもある。

 う~~ん、引っ張り出してみようかな、万年筆。