理系夫婦Y子とMの昭和から令和まで

都内で働く薬剤師Y子と、パソコン・DIY・生物などに詳しい理系の夫M。昭和30年代から今日までの実体験に最新の情報を加え、多くの方々、特に子育て・孫育て世代の皆様のお役に立つことを願いつつ発信する夫婦(めおと)ブログです。

小型Bluetoothキーボード 電池寿命2年保証だって!

Mです。

PC離れがますます進行しているという。スマホで殆どのことができてしまうし、国をあげてキャッシュレス社会に舵を切ろうとしているなか、ツールとしてのPCは、もはや専門機器の部類になってしまうのだろうか?!

企業の新人教育に、PC訓練というのがあると聞いて驚いたのは、スマホを使わない旧人類だということ。

Windows8で現れたPCのスマホ化は、どちらかというとそれほどのインパクトがなかった。タッチパネル式液晶モニターとの組み合わせで、入力も画面上でできるようにするというアイデアは、むしろデカいだけのスマホであって、入力の速度や微細さを必要とする作業にとっては無意味だったと思う。つまり、本当にPCである必要がある作業には、PCのスマホ化は無用だったのだと思う。

ということで、Widows8以降も、入力ツールとしてのキーボードは健在だったということだろう。

しかし、さすがに旧来の横長テンキー付きキーボードは、ノートPCの時代からどんどん下火になっては来ていた。数字を含む入力の多い作業にテンキーはとても重宝で、デスクトップPCには、いまでも横長のキーボードの方が収まりが良いように感じている。まあ、それも旧人類の感覚なのかも知れないが、なにも、利用価値の高い物を無くしていく必要もないだろう、と思う。

そんなキーボード、以前はPS/2コネクタが主流だった。

 ↓ エレコムさんがいまだに作っているらしい。さすがにコネクタはUSB化していて、PS/2変換コネクタで対応している。

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今ではPC製造から完全撤退(Lenovoに売却)してしまった当時の雄IBMさんが採用していた丸形6ピンコネクタで、マウスも長いことこの形状のコネクタだった。今では、デスクトップ用マザーボードからもIBM PS/2規格は消えてしまい、コネクタといえばUSB全盛。かといって、USB化する必要も無い程度の通信速度で使用しているキーボードやマウスは、そのままPS/2コネクタでも良かったのだろうが、そこは規格の省力化。USB化できる物はすべて統一、という流れはむべなるかな、である。

さて、キーボードの使用上で面倒なのは、マウスと同じく有線であること、にあった。しかも、細いケーブルですむマウスにくらべて、キーボードのそれはかなり太い。だいぶ細めの物もあるのだがそれでも直径4mmくらいはあろう。となると、その煩わしさは結構大きい。Mのデスクトップでは結構太い(多分7mm)ケーブルのキーボードを使っているので、それが書類やらの間に挟まっていると、動かしたときに山を崩して・・・なんてこともしょっちゅう。

そう考えると、キーボードも無線式でということになり、巷にはかなり前から結構出回っている。マウスのように、微細な動きが有線より劣る、などということはこちらではあり得ないので、正直Mも一部のPCで使っている。作業場所とPCが離れていても良いので、使い分けということ。

 ↓ エレコムさんの写真を拝借した。2.4Ghz通信の無線キーボード。部屋の中ならどこにいても良い。ただし、モニターが見えない場所では意味がないが(笑)。

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しかしここでも問題はあった。無線マウスでもそうだったが、結構電池切れが速かったのだ。ひと月、ということはなかったと思うが2~3ヶ月で電池交換、ということはざらだ。製品仕様書には数年保つ、とあるが、使い方なのだろうか、Mの場合数ヶ月で電池切れしてしまう。あらかじめ単三電池をたくさん蓄えてあるのですぐ交換するが、やはりもっと保ってほしいとは思う。

そんな無線キーボードに、2年間電池交換なしを唄う新種が現れた。
PC周辺機器の老舗の一つ、バッファローさん。

 ↓これ

https://www.buffalo.jp/product/detail/bskbb310bk.html


この5月末発売だそうだ。価格がオープンというところが判断に迷うところだが、そう高くはないだろう。
どうせPC本体の近くで使うのだから、10m範囲の通信が基本となる省電力Bluetoothにした点でメリットを出したのだと想像する。

このキーボード、残念ながらテンキーレスで、Mの用途には向かないかも知れないが、一応の選択対象にはなる。

通信方式がBluetooth だから、今様のタブレットPCの補完機器という観点が強いのだと思う。ノートPCのキーボード部分は小さくて使いにくいこともあるから、その代用という意味合いもあるに違いない。

いずれにしても、単四2本で最低2年というところがミソだ。
そして、もう一つの特長は、相手3台を切り替えて使えるということ。
つまり、PC三台でキーボードは一つで良い、という場所の問題の利点である。テンキーはないけれど、机の両側にデスクトップを並べて別の作業をしているMにとって、これはメリットだ。

それにしても、テンキーなしがなぁ、と残念なのはMだけだろうか。

マウス選び : 価格 か 精度か はたまた 好みか?!

Mです。

現行PCに必須のマウス。PCが使われ出した頃、操作はすべてキーボードで済むことだったから、マウスは存在していなかった。マウスは、マッキントッシュが使い出したといっても良い。操作性を主眼に置いていたMacは、画面上に”動くアイコン”を表示して、”クリック”という操作でプログラムを実行していくという画期的な手法を世に出して人気が一気に高まった。当時はクリックするボタンは一個。というより、マウスの前側が押せるようになっていて、そこをペコッと押すことがクリックと説明されていたわけだ。一方のWindowsは、Windows95になって初めて、マウスでの操作を中心に据えたPCの時代に突入したのである。

古くからのPCユーザーであるMは、マウスが主流になっても、プログラムの操作にCtlキーとアルファベットの組み合わせでコマンドにすることに慣れていたから、当時のマウス操作程度ならむしろコマンド ポンの方が速かったくらいだ。むしろ、マウスが煩わしいくらいの時代があった。

そんな時代は、もやは化石。
いま、マウス無しでPCを操ることはほとんど不可能だろう。Windowsも2000以降はますます操作のアイコン化が進んで、マウス無しで行うのはシステムツールで呼び出すDOSコマンド画面くらいだ。

そんなマウス。店先を眺めると、超安値の有線マウス(光学式)をのぞきすべて無線マウスだ。無線マウスには、低価格の光学マウス、やや高額の青色光学マウス、そしてやや高めから始まるレーザーマウスに分かれ、それらの特性を表示する説明書きや比較表と一緒に並んでいる。ちなみに下の写真は、もってけ箱で見つけた有線の光学マウス200円也。じゅうぶん使えている。

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さて、現実問題として、マウスを選ぶ基準は何だろうか?
さすがに、ボールマウスはジャンク屋以外で見かけることはなくなった。
固い机の上だと、重さがあって細かな移動がうまくできるツールだったのだが、残念ながら、ゴミつまりなどメンテが必要なので消えてしまった。
CAD操作では、今でも重いボールマウスを重宝して使っているが、レーザーマウスや青色光学マウスの出現で、その地位も脅かされてきた。操作精度だけだと、もはやボールマウスを凌駕している。しかも、柔らかい布面でもうまく操作できるから、冷たい机の上で使わなくてはならない冬場は、いまさらボールマウスに勝ち目はないのだ。それでも手放さないでいるのは、もはや好みの問題だから、と言うしかない。あのボール掃除も、なかなか楽しいのである。

線が細くなって邪魔にならなくなったとはいえ、コスパがよいのはやはり無線光学マウス(赤色LEDタイプ)だろう。PC側に付けるUSB受信器とペアで売られている。

  ↓ エレコムさんのふつうの工学無線マウス。これで、たいていのことは出来る。

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しかし、作業に細かな図面作業や画像処理作業がある人にとっては、無線光学マウスだと今ひとつ操作性が悪い。操作面をよく工夫して細かな動作ができるように対策するという手もあるが、そもそも分解精度がそれほど高くないので、頑張った割に報われない、という結果に陥る。

通常の作業なら、これで大抵のことはできる。ポケットに入れて持ち運べるのでマイ・マウスとして出先で使うことも出来るので、神経質な人にも嫌がられない。
ふかふかした布面や白い机、光沢面なんかではうまく動作しないが、色のある板なんぞ(もちろん紙でもOK)を敷けば十分使えるから、ちゃんとしたマウスパッドなんぞを買う必要はない。むしろ、小さなマウスパッドなんかを買ってしまうと、動かしているときにパッドから外れてしまい使いにくいことこの上ないのだ。
ただし、紙を敷けば良いとは言ったものの、新聞紙はどうもよろしくない。何が悪いのか判断できないでいるのだが、濃い色の写真部分などを除くと、白いとは思えないあの紙面で操作するとアイコンがスムーズに動かない。それに比べると、冬でも冷たくない段ボール紙はなかなか使いやすく重宝だ。
無線光学マウスの最大の弱点は、電池の消耗にある。操作場所のことは工夫でどうにでもなるが、電池の消費量だけは対策なし。こまめに電源を切っても、よく使う人だと月に1回は電池切れする。判っているからアルカリ電池をたくさんに買い置いているし、バッグにも常に4本入れている。
この点だけ対応すれば、まず無線光学マウスで普通のことは大丈夫なのだ。

そんな人、あるいは作業には、ちょっと高いが青色LEDを使ったマウス(最近ではBluetooth通信のものが多い)またはレーザーマウスがお勧め。

 ↓ エレコムさんの青色LEDマウス。PCとのリンクはBluetooth

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 ↓ ロジクールさんのレーザーマウス。リンクはもちろんBluetoothとなる。かなり

  細かな調整もきくそうだが、Mは未経験なのでコメント不可(笑)。

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メチャクチャきれいなガラス面をのぞけば、白い机でもこれらのマウスは微細コントロールが可能だ。青色LEDは、波長が短いことで赤色LEDの難点をクリアしている。一方のレーザーは、波長こそ赤色LEDの650nmより長い850nm程度なのに、光線の特性(位相が揃っている)によって、驚きの微細識別を可能にしている。いずれも、細かな画像処理や微細間隔の調整を必要とする作業にはもってこい、というより、これがないとフラストレーションが溜まってしまうだろう。

 とはいえ、実のところこういった細かな調節は、有線ボールマウスで苦労することなく出来ていた。上記の愛用ボールマウスは、やや重で臥体が大きめなのだが、それはボールも大きめでその動きを伝えるX、Y軸方向の感知リール半径も大きめだという構造のせいである。そんな構造なので、かなり微細な動きを捕らえてくれるのである。ボールも重いので、ちょっと押しつけ気味にしてジワッと動かすと、微妙にアイコンが移動してくれる、という具合。まさに、アナログ機構による優秀なデジタルツールだったのである。

 と、無線マウス全盛の様子を書いたものの、実はMが今いちばん使っているマウスは、ここのところ有線光学マウスに戻ってしまっている。
その理由は、有線のラインが細くなって以前より邪魔にならなくなったからではなく、有線の方が応答性がスムーズで良いと再認識したことにある。電池交換がいらない、という問題でもなくて、操作性が勝っていると思い直したから。
LED波長は同じだし表示されている分解能も同等だから、機能差ということではないようだ。有線と無線の差? 通信ムラ(そんなのあるのか?と思うが・・・)でもあるのだろうか、同じ操作面上で比較しても、有線の方がスムーズに作業できると感じるのだ。

さすがにノートPCに有線マウスという組み合わせはどうかと思うが、デスクトップなら、むしろ超安価な「いまどき」有線マウスが使いやすいと思い直している。
500円均でバラ売りされている有線マウス、侮りがたし、である。

ところで、ゲーマーの方々は、有線マウス嗜好なのだそうだ。たぶん青色LEDかレーザーを使っているのだろうが、分解能は通常マウスの10倍以上あるようだ。
Mが見てまわる店舗なんかはゲーマーさんの領域とは異なっているので見たことはないが、きっとメッチャ高額な有線マウスがあるのだろう。なにしろ、速度と精度を駆使する世界だから、ちょっと想像がつかない。

余談だが、マウスのあのクリック音、どうにかならないかと思っていたら、ちゃんとありました!しかも、結構つくられている。静音マウス、と呼ばれていた。
作業に集中している時、コキッ コキッ というあの音が煩わしいのです。まるで失敗回数が多いねぇ、とでもなじられているようで。

有線静音マウス、買ってみようかな・・・

 

なんだよ、結局のところ、最後は”好み”に帰結する、ということか。

子供たちを守る安全教育

薬剤師Y子です。

今日から10連休、という方も多いと思います。

いつもより混んでいる場所もあれば閑散としている場所もありますね。

それに伴って「危険箇所」も、連休中は普段と違ってきますので、要注意です。

 

いつも大人に連れられて移動していた子供が一人で外を歩くようになると、それまでとは違う種類の「危険」が、そこにも、ここにも。

 

子育て・孫育て中の私たちは「こういう時は、こうしてね」と、安全のためのルールを何度も何度も、子供にとって「使える知識」になるように手を変え品を変え表現を工夫して、伝えておく必要があります。

今日は、そのために使えそうなツールを、いくつか紹介します。

 

「たいせつないのちとあんぜん」

これは文部科学省のパンフレットで、クイズ形式なので使いやすいです。 こちらのサイトから、印刷して使用することが出来ます。

https://anzenkyouiku.mext.go.jp/mextshiryou/data/seikatsu05_h29.pdf たいせつないのちとあんぜん

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防犯のための標語「いかのおすし」

「(知らない人について)いかない、(知らない人の車に)らない、(自分や他の子が危険だと感じたら)おきな声をだす、ぐにげる、らせる)」の頭文字をとったもので、学校等で子供たちが教わってくることが多いようです。

 

でも、この「知らない人」という言葉、実は要注意です!

「近隣住民など”あなたが知っている人”なら、大丈夫」というわけではない、ということを親や祖父母が自分の言葉で、わが子、わが孫に理解してもらえるまで丁寧に伝えておく必要があるのです。

とても悲しいことですが、加害者が「被害を受けた子供にとって、知っている人だった」という犯罪の事例が少なくないのを、私たち大人は承知しています。

その事実を、子供たちの理解力に合わせ表現を工夫して伝え、とっさの場合にも子供自身が正しい判断をして「自分や他の子の命」を確実に守れるようにしておきたいですね。


防犯テキスト「子どもを犯罪から守るために

https://www.police.pref.kanagawa.jp/mes/mesd0050.htm 防犯テキスト ー 子どもを犯罪から守るために

こちらは、神奈川県警のサイトで公開されているものです。

路上・公園・玄関などでの事例と対応策が具体的に記載されており、必見です。

私たち大人にとっては「断るのが当たり前」のことも、子どもは素朴な善意から断れず、犯罪者の意のままに行動してしまう場合があります。

「何が、なぜ危ない」とか「どういうことを目撃したら誰に教えて欲しい」とか、その子を本当に大切に思っている大人が、子どもの目を見ながら、確実に伝えましょう!

https://www.police.pref.kanagawa.jp/mes/mesd0050.htm#kodomohigai2  お子さんが被害者になる犯罪のケースと対応策

 

防犯グッズも、子供さんの成長に合わせて活用できると良いですね。

https://www.police.pref.kanagawa.jp/mes/mesd0052.htm#goods 神奈川県警による「お子さんへの具体的な指導方法ー防犯グッズ」

せっかく買い与えても、ランドセルの中に入っていてイザという時に取り出せないのでは役に立ちません。

大きな音が実際に出ても大丈夫な場所で、例えばホイッスルを取り出して吹いてみる、といった「予習」が必要です。

 

このあたりは、いつも忙しい両親に代わって、孫育てに関わる祖父母が担当するのも良さそうですね!

 

 

幼児はパラレルワールドの住人

Mです。

よちよち歩きの段階を過ぎると、こどもは一気に事物の情報処理能力が発達する。

これは30年以上前のMの体験。

それまでは、刺激的なあそびでお気に入りだった(空中に放り上げて落ちてくるところを受け止める)をただキャッキャと喜んでいただけだったのに、放り投げたとたん空中でからだをひねって仕掛けた父親をあわてさせる行動に出た。2歳半くらいだった。その時期から、こちらのアクションに対して画一的な反応から脱皮してアドリブを加え出してきたのだ。
幼児が、ある時急に、自ら新しいアドベンチャーに挑み始めるのである。

この経験は、それこそ「こどもだと思って侮っていた」親の浅はかさを思い知らされた一例だ。

草食動物の新生仔が、産み落とされると間もなく自力で立ち上がり、ヨタついた歩みながら母親の乳首を探り当てておっぱいを吸い始めるという映像を見たことがある人も多いだろう。それに比べればはるかに自立の遅い「にんげん」だけれど、身体的発達は別として、大きな頭の中身は、快不快がほとんどだった新生児期から2年足らずで言語を理解し始め自らも使い出すという驚異的な進歩を遂げる。そしてその後から手足の自由度が増していき、よちよち歩きを乗り越えると、周りの人間の動きを真似て自分も模倣行動を始める。この時期が、Mを慌てさせたアドベンチャー指向の時期に重なる。 

 

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上は、いかだ社さんが出している発達度別指導本だが、こんなことも保育所とかでは参考にしているのだと思うと、頭が下がる。

自分自身の記憶は残っていない時期なので、我が子の行動で驚かされた記憶なのだが、とにかく、周りを観察する目とその処理力が増すと同時に、変化を求める思考が生まれてくるのだと思う。言葉にすれば、「こうやったらどうなるのかな?」とでもいう感じなのだろう。たとえそれが結果として快感を生むものにならなかったとしても、だったら次は・・・ 的に、新たな展開へのステップにするだけのこと。2回3回と試行していくうちにとんでもなく面白い結果に行き着いたりして、こどものアドベンチャーはますます激しくなっていくのだ。

そんな姿を見ていると、できあがってしまった大人がトライするアドベンチャーと幼児のそれは全く異なったものなのだと思う。大人の変化欲求は予想可能な範疇なのに対して、幼児のそれは、異世界への突入とでも言うべきことなのだ。何しろ、結果が予想できないで試すのだから、安全を意識しながらトライする大人の世界とはまるっきり違っている。大げさだが、命をかけたアドベンチャーを繰り返しているのだ。

木登りしかり。
さすがに3才くらいでは腕力が伴っていないので木に登ることは不可能だが、高い台があれば登りたい。登ると、なんと高くて遠くまで見えることか。せいぜい30センチ高くなっただけでも、見える世界が違うはずなのだ。それまでは保育士さんのひざしか見えていなかったのに、一気に胸のあたりまで見える。園庭のフェンスからのぞける隣の風景が、台の上からだとずっと遠くまで見える。といった具合に、見える情報量が一気に増すから、次はもっと高いところに行きたい、などと期待がどんどん膨らんでいくのだ。

そういう幼児期の欲求は大人から見るとはなはだリスキーで、出来ればセーブさせたい対象。が、それをしてしまうと幼児は大人の目を盗んで陰でトライしようと企てる。大人は、そうならないように監視しつつも、できるだけ幼児のアドベンチャー指向を許容してやらなければならないのだと思う。

そのためには、時間が思うようにとれないという制約はあろうが、幼児のよろこぶ動きを大人も一緒になって体験しながら、あぶなくない手法を彼ら自ら見つけられるよう誘導してやるしかないのかもしれない。
擦りむいたり、コブをつくったりするくらいは許容して、とにかく楽しく一緒に遊ぶ時間が子育てで重要な位置を占めていると思っている。

ひねりを加えることなどしなかった昨日と、ひねりを加えて父親を慌てさせた今日とでは、同じこどもなのに全くの別人なのかも知れない。成長途上のこどもたちは、幾重にも重なったパラレルワールドに棲んでいて、日々層を剥がして新たな姿で現れてくる。
そんな気さえするのである。

「きれいすぎない子育て」が大事!

Mです。

「きたない」は、必ずしも害ならず。
信念の一つである。

世の中、汚いものだらけだ。
いちばん汚いのが人間の果てしない欲。金銭欲、出世欲、支配欲、云々、いくらでもある。それにくらべると、自然界の汚いものなど、水さえあればどうにか落とせるほどの「よごれ」がほとんどだ。

年々ジワジワと増えているように感じる小児のアトピー症状。都会、田舎の関係なく、幼い子供たちが首や顔をかきむしってしまう姿は、とても耐えがたい。おなじように花粉症もたいへんだ。

田舎育ちのMのこども時分、アトピー症状を起こしている友達はほとんどいなかったと思う。牛乳を飲むとじんましんが出る、という友達はいたから、免疫システムがイタズラしてアトピーに類する症状を起こすこどもはちゃんといたわけで、人間がこの50年ほどで変わってしまったわけではない。反応してしまう対象物が増えたから、というのでもなく、からだの側で免疫系の異常症状が起きやすくなる生活スタイルが増えてきたから、というのが本当のところだと思う。

キヨミちゃんと名付けたサナダムシを自分の腸に飼っている、という笑い話のような本当の話で有名な寄生虫学者(=免疫学者)藤田紘一郎さんが、アトピーについても本を出している。そこでも触れられているが、腸がシッカリと外部の異物やばい菌たちを取り込んで処理するという過程を経ていないと、正常な免疫システムができあがらない、という事実がある。口から入ったさまざまなモノを、腸内細菌と腸壁の免疫細胞たちが協力して処理して健康な腸を守っているのが、正しい生き物のかたち。その仕組みが崩れると、異常なかたち、つまり攻撃しなくても良い相手を攻撃してアトピー症状に進んでしまう、ということ。

下も藤田さんの本で、腸の免疫システムを面白おかしく開設している良本である。

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ほかの動物たちと同じで、人間も自然界のモロモロを手にし、口にすることでカラダがそれらへの対応方法を学んでいく。腸管は、免疫系の一番大事な出先機関のひとつで、そこで消化・吸収しながらカラダにとって安全なものとよからぬものとを判定している。

だから、すごくきれいな環境で育った動物は、普通の環境はとんでもなく危険な環境になってしまう。なにしろ、ばい菌、ムシ、生き物の出したカスやらなにやら、とにかく会ったことのない異物たちがいっぱいで、そんな「きれいな動物」は免疫系がパニックを起こしてしまうのだ。
ふつうの自然界は、それほど「きたない」のである。

けれども、そんな「きたない」自然界で、動物たちも人も繁栄してきた。
ということは、「きたない」=「害」ではない、ということ。

日本の家屋は、西洋人が「日本では、人々は木と紙でできた家に棲んでいる」と表現したように、自然界のものがどんどん入り込んでくる作りだった。すきま風のことばかりではなく、材木や畳はカビをはじめとする微生物の培養器のようなものだし、ダニなどの微小生物の棲み家でもあった。クモやムカデも入り放題だったし、ネズミが天井裏や縁の下で生活していた。壁にはヤモリがへばりついてハエを狙っていた。そんな生き物たちの出す排泄物も、乾けば屋内空間を飛び交っている。人は、それらの生き物たちと共生していたようなもので、彼らの排泄物を常にカラダに浴びたり吸い込んだりしていた。

だからといって、それでみんな死んでしまうことなどなかった。たしかに、平均寿命は今よりずっと短かった。人生50年、と織田信長が舞っていたというが、それは、栄養状態の違いによるものが大きいだろう。単に生活環境が「きたない」から早死にしたのではない。医療も未発達で、今なら助かる病気やケガで早くに死んでしまったということが多かっただけだ。

そう考えると、藤田さんがいうように、あまりにもきれい好きな世の中の風潮が、少々「きたない」くらいは問題視しないはずのからだのしくみ(免疫系)をアンバランスにしてしまった、というのは正しいと思う。

あまりに「きれい好き」でアルコールでしょっちゅう手を拭いていると、皮脂はなくなり角化層が剥がれ立って皮膚の深くまで有害物質が届きやすくなる。化粧品や洗剤など、本来は皮膚内部にまで行かないはずの化学物質が、たやすく皮膚の深くにまで達してしまう。すると、真皮ではもともとからだには無い害毒物質を排除しようとするから、血流を集めてきてジクジクと漿液をしみ出させて流し出してしまおうとする。炎症である。痛かったり、痒かったり。これが、アトピー症状の一つでもあることはご存じの通り。

反応してしまう相手が化学物質なのか、ダニの死骸や糞の成分なのか、それはいろいろだろうが、もとはといえば、皮膚の防護機構を無視して「きれい好き」を押し進めた弊害が現れた可能性が高い。

これはほんの一例だけれど、密閉化された家の中を、一生懸命化学物質でお掃除して、からだもゴシゴシと洗浄剤でこする生活スタイルは、生き物として正しい姿ではない。
人は、微生物がうじゃうじゃいる環境の中で共生しているはずだった。それを、なまじ知識を持ってしまったために、「単純なよごれ」と「本当に排除すべき汚れ」が区別できずに一把ひと絡げで「清潔」を目指してしまう。そこに、現代病を生む素地があるのだと思っている。

こどもは、少々汚れていたくらいで病気になったりはしない。むしろ、洗剤や化粧品を呑んでしまうことの方が遙かにコワイ。

土だらけになって遊んで、手に泥が付いていたら水で洗い流せば良いではないか。アルコール清拭なんていらない。
少々洗い足りなくても、手づかみでものを口にして良いではないか。そうやって微生物を腸に届けて、良い菌、悪い菌を自分のからだで判別対処できるようにすることが大切なのだ。

異物だらけの環境の中で、本当に害になるものを排除していけるような基礎教育が、本当は大事なのだと思う。

からだづくりは、きたないものとの共存だと言い切っても良いと思っている。

離乳食 (手づくり and/or 市販品)

薬剤師Y子です。

今、二人目の孫が少しだけ離乳食を食べています。

 

私の息子たちが離乳食を食べていたのは1980年代で、今ほど多種多様な市販品はなく、結果的に私が手づくりしたものを与えることが多かったです。

手づくりとは言っても、家にいる時の私は基本的に「面倒なことが大っ嫌いな手抜き主義者」なので「自分と夫のために料理をする時、食材を加熱したら味付け前に一部を離乳食用に取り出し、すぐ使わない時には冷凍保存」という方法。時間も手間もかけていませんでした。

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息子たちが生のバナナを食べられるようになってからは食卓にバナナを常備し、夫や自分の空腹時にも、離乳食にも、バナナは大活躍でした。フォークの背でつぶしただけのもの、その時点で飲める『ミルク』や『ジュース』を加えて混ぜたもの、市販の離乳食を買って与えてみたら味が好まれなかったのでバナナと混ぜて「ごまかし」を企てたものなど、色々と姿を変えて、バナナは息子たちの口に入っていきました。

 

今、薬剤師として、また孫育てに関わる祖母として、ドラッグストア等で売られている乳幼児用の食べ物や飲み物を眺めていると「もし今、私が離乳期の我が子を育てる母親だったら、100%市販品に頼るかも」と感じることが多いです。 

離乳食に限らず、「手づくりの方が愛情が伝わる」などという表現を見たり聞いたりすると、私は猛烈に腹が立ちます。「大きなお世話なんですけど!」と言い返したくなります。もちろん「いい年の大人の女性」なので「自然な笑顔に見える作り笑い」で受け流しますが。

 

人間は哺乳動物なので最初は「乳」を飲みます。そして成長して「大人の食べ物」の中から自由に何かを選んで食べられるようになれば、そうします。その中間の時期、親や祖父母や周囲の大人が「その時の、その子」に適した食べ物や飲み物を選んで与える必要がある期間(疲れて辛い時は永遠に続く修行のような気がするけれど、これも過ぎてみれば「ほんの一時期」で、懐かしい)の、最初が離乳期です。

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「手づくり」の方が安上がりだし楽だと思えば、そうすれば良いし、市販品の方が衛生上ずっと優れているし非常時にも安心、と感じたら、賞味期限を確認した上で多めに買って備えておけば良いと思います。もちろん「生後7ヶ月ぐらいから」と書かれている離乳食を3歳児とか、成人で要介護の方に食べてもらっても全く問題ありません。

(余談ですが私には介護経験もあり、語り始めると話が尽きません。市販の離乳食は介護食としても優秀で、とても便利です。)

 

離乳食を手づくりする方は、こちらのサイトに目を通しておくと良いと思います。

「離乳食NG食材、要注意食材まとめ」です。

https://kosodate.pal-system.co.jp/kihon/zissen/ngfoods/

 

 

離乳期の子を育てている皆さん、くれぐれも無理なさらず、ご自身の食事や睡眠を犠牲にしなくて済む方法を選んで下さいね。 

 

 

こども と 刃物(どんどん使わせました)

Mです。はてなブログのIDをMも取得したので、今回の記事からは最後に

夫M (id:otto-M) ○○日前 

というような表示が出るようになりました。前回までのものは「Mの記事にもY子の署名が入っている」ように見えてしまい、恐縮です。)

 

われわれがガキの頃は、監視カメラゼロにもかかわらず、いつもどこかで誰かが子どもを見ていたような気がする。

田舎しか知らないけれど、大人たちの巷間ネットワークの奥深さは想像以上で、○○んちの△△男が、昨日お稲荷さんのお供え食ってた、なんてことが向こう三軒両隣を遙かに超えて広がり、まもなく学校でセンセにしかられる羽目に陥る、なんてことが現実にあった。

フェイクニュースが飛び交う現代とは違って、その情報を広める人と経路が明白になっているから、まことが飛び交うのである。ウソがウソを呼ぶ今とは違って、情報が確実に活きていたのである。

 

そんな世の中では大人がガキどもに、いつも偉そうに何か教えていた。

テレビもまだなかった時代だから、偉そうな大人やそれに近い姉ちゃん兄ちゃんたちも、自分の存在価値をガキどもに何か教えることで自らのアイデンティティーを示していたのである。

考えてみれば実に健全な世の中だった。しかし一方で、ひとたび悪のレッテル(死語?)を貼られたら最後、悪くすると村八分状態になるから、みんなでそうならないように監視し合っていたのである。

だから小悪は皆の共通の話題に挙げて、大悪に至る前に芽を摘んだ。

センセに叱られるように持っていくのもその手段の一つだったのだと思う。

 

大悪だけは誰しも避けていた時代、今では日常茶飯事になってしまった簡単に人を刺すなんてことは、まず起こらなかったのである。

そんな話は高倉健さんの任侠モノ映画の世界であって、そんなことが起ころうものなら、その地域は世の中からまともに見て貰えなくなる。世の中から村八分にされてしまう。それがどんなに恐ろしいことか。

 

ところが、である。そんな時代は、今と違ってガキどもが平気で刃物を使っていた。今では考えられない。学習塾に通う子どもが、ポケットから刃物を持ちだしたら大騒ぎになるだろうけれど、当時の私のポケットにはいつも「肥後守」が入っていたのである。たしか10円くらいで売られていた。

それ一本あれば、笹竹で弓と矢をつくって遊ぶ、竹を切ってきて釣りをする、山の中で見つけた柿を仲間の頭数に切り分ける、などなど、色んなことが出来たのである。

    

↓ 肥後守はこんなのです。Mがいつもバッグに入れて持ち歩いている愛用品。500円くらいだったと思う。田舎の金物屋で30年ほど前に見つけたもの。    

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ガキは、自分の手を切って刃物のコワサを知りながら、同時にその便利さを学んでいく。当時の大人たちは、それを教育だと考えていたに違いない。もちろん、大人たちもそれを知っていて許容していた。道具を使うのは、「にんげん」の特権だからだ。

いけないこととして共通していたのは、火遊びだけだったような気がする。マッチだけは持たせてもらえなかった。火事は、自分だけでなく周りの人々に被害を及ぼす大災害につながるから当然である。

 

我が家の場合、父親は刃物が苦手だったが母親は実に器用で、小学校のはじめ頃は、朝飯のあと母親が菜切り包丁で鉛筆を削ってくれていた。今考えるとすごかったと思う。ごく短時間で5本くらいの鉛筆をシャシャシャシャァ~と削ったのだ。

当時、ハンドルを回す鉛筆削りなんてモノは田舎にはなかった。学校で筆箱(これも死語?)を開けると、良く削られた鉛筆を持っているのはわずかで、だいたいがへたくそな散切り削りの様相で、自分の鉛筆が誇らしかった。

だからだろうか、私はその頃から刃物に執着していたように思う。母親のように上手く刃物を使えるようになって、いろんなモノを作るんだ、といつも思っていた。

 

刃物は、危険なのは当然だが、それがあるからこそいろいろなことが出来るということが重要で、決して避ける対象ではなかったのである。

 

今の世の中、そんなことを言ったら、それこそPTAで吊るし上げられるかも知れない。しかし、25年以上前の我が家では子どもたちが自由にNTカッターを使っていた。

団地内の公園で長男が笹竹で弓矢をつくって年下の子どもたちの人気者になった、ということがあった。息子はせがまれて何本も作ってあげたらしい。

だから刃物を使える方が良い、ということではなくて、そんなこと程度で話題になってしまったことがむしろ父親としては驚きだったのである。モノを自分で工夫して作って遊ぶ、そんなことが出来ない時代になってきている、という驚きだったのだ。

 

我が家の息子たちは当時から竹とんぼを作って遊んだりしていたが、あんなことでさえむしろ特殊なことのように思われていた。なんじゃそりゃ!?だったのである。

ものづくり大学がだいぶ前に話題になった。いまどういう評価なのか知らないが、まさしく刃物も使えなくなった時代の歪みが、そんな形だけで話題を誘う流れになって現れたのだということが悲しかった。

 

刃物に限ったことではない。こどもは、いろんなことにトライして、時にはケガをして体と頭でさまざまなことを学んでいく。

わかったような顔をしている大人たちが、予防線ばかり張ってトラブルが起こらないようにしてしまうと、こどもたちは実地体験で脳をはぐくんでいくことが出来なくなるのではないか。Mには、それがとてもマズイことに思える。

IT化の時代、実物を使わなくても出来ることはいくらでもある。けれど、生身のにんげんはそれだけでよいのだろうか?

 

我が家に合い言葉のように使われていたフレーズがあった。トラブルにあった時に使う言葉で、「死にゃあしないよ」。
痛みを経験してみれば、どこまでが安全圏か自分でだんだんわかってくる。たいていのことは、しくじっても構わない。「死にゃあしないよ」なのである。

 

大人は、こどもを視ていなくてはならない。しかし管理してはいけない。
Mはそう思っている。