理系夫婦Y子とMの昭和から令和まで

都内で働く薬剤師Y子と、パソコン・DIY・生物などに詳しい理系の夫M。昭和30年代から今日までの実体験に最新の情報を加え、多くの方々、特に子育て・孫育て世代の皆様のお役に立つことを願いつつ発信する夫婦(めおと)ブログです。

クローンだらけ ちょっと不気味?

Mです。
今回は、知っているようで知らないクローンだらけ、のお話。

去年、中国の研究者がヒトの卵を使って一部のDNAを改変して双子を誕生させたと発表した。その後、中国政府からも許容されない研究だと否定されたが、裏世界では既にジワジワと遺伝子改変ヒューマンの誕生が広がっているような気がする。研究者というのは、資金さえ出てくるのなら ”はじめて” を欲して止まない。それがモラルに反するとは判っていても、戻れなくなる者は絶対にいる、と思う。
なぜ非難されるのか、という観点から考えると、二つの面があると思う。
一つ目は、人為的に未来を作られたヒトの尊厳の問題。偶然にしか生まれないはずの命を、思うが儘に造りかえようという考え自体が、生命の冒涜だからということ。
そして二つ目は、幸いにして誕生し、成長することができたとして、人為操作の結果が将来的に既知、未知の疾患につながった時、その責任がとれるのか、という刑法上の問題があるだろう。つまり、病気になる可能性が無いといえない行為を、本人の承諾無しに(生まれる前なのだから当然なのだが)実施した罪ということになる。

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ダメだという意見には他にも若干異なった理由を挙げる人がいるだろうが、要するに、対象がヒトだから ”おおごと” として扱われるだけだ。英国で生まれた体細胞クローン羊「ドリー」以降、動物を対象にした各種のクローン誕生はもはや珍しくもない。クローン・ペットの作成は公然と行われているし、動物実験の精度を上げる目的で実験動物のクローンを多数作り出す試みも続いている。生命を操作する、という行為自体、ヒトでないなら構わないという矛盾をはらんだまま、ヒト社会は動いているのだ。
突き詰めれば、食べるためには畜産が必須産業であり、牛や豚を食するのは仕方のないこと。自然界から動物を捕らえて食に供するだけでは足りないから、食するために育てるのであって、それは罪にならない。感謝していただけば・・・ と、まあ、結局は人間の妥協世界なわけで、そんな中で生きている自分自身、それを肯定している。

そんな、ちょっとオドロオドロシイ側面のある動物界のクローンだが、植物界ではガラリと様相が変わる。誰もが知っている全国各地のソメイヨシノが、実はみんなクローンだということは、良く知られた事実。これこそ、クローンだらけ、なのである。

オオシマザクラエドヒガンザクラの交雑種から江戸の染井村の職人達が選び出したソメイヨシノだが、遺伝子のタイプが強いヘテロ接合性を持っているため、種が取れたとしても実生の個体が親と同じになる確率が低いので、種で殖やすことができない。

園芸植物なのだから、親はソメイヨシノです、と言っても、親と全く同じソメイヨシノは一部にしか生まれてこないのでは、商売にならないのである。また、ソメイヨシノ自体が自家受粉では稔性のある種(芽生える種)がきわめて作られにくい、という自家不稔性という性質を持っているので、実生を育てるということも困難。この二つの要因から、職人の人たちは同じソメイヨシノを殖やすために、彼らの得意技能である ”接ぎ木” を行った。気の遠くなる作業だけれど、日本中のソメイヨシノが、そうやって殖やされていったというのも驚きである。だから、あの花を咲かせている幹、枝はみんな同じ遺伝子タイプを持つクローンなのである。そしてそれは、森林総合研究所の研究成果としても確認されているのだから間違いない。

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病気にさえならなければ永遠の命を持っているともいえる樹木。接ぎ木、取り木、といった単純だが卓越した技術を繋いでくることで、優れた性質を持つ個体をクローンとして殖やしていける植物の世界は、動物とは全く別のクローン天国なのか。

ただ、考えようによっては、文句を言わない植物だから、キレイだね、便利だね、で済まされているということではないだろうか? 

現実問題として、米国のかつての有名バイオ企業モンサントが、特定の病害虫や病気に強い、として作り出していた各種の遺伝子組み換え植物が、食品として安全なのかという疑問から数々の話題、批判となって世界中を飛び回っていた。これらの植物も、とらえ方としては遺伝子操作由来のクローン植物になるのだ。
植物であっても、それが食品として関わってくるとなると、もはや黙認できない対象になってしまう。植物だからといって遺伝子操作はすべてOKとはなっていないのだ。

やはり、生物を対象とした遺伝子操作には必ず未知のリスクが潜んでいるわけで、それを頭にインプットしておいて、これから行おうとすることの正当性をみんなに認めて貰えるようにする必要がある。

幸いにして、旧来の品種改良法で作られる園芸、生産植物は、交配という自然の手法をただ効率よく用いてつくられたというだけだから、遺伝子操作のリスクとは別次元。それを基にして、殖やすという段階だけに増殖法としての ”カルス培養”の手法を用いるのも、生物学的に異常なことではない。

遺伝子自体をいじって特殊な生命体を作る、という行為と、自然の手法を効率よく行って生産性の高い動植物を作る、という行為はしっかりと分けて考えなくてはいけないと思う。その一方で、人間は何処まで効率を求めていくべきなのか、という本質的問題を考える必要があるのだということを忘れてはいけないだろう。

あと一月もすれば、ソメイヨシノが咲き出す。

植木職人の汗で殖えてきた淡いピンク色があふれる季節が、待ち遠しくなってきた。