Mです。
Y子と中高生の頃の話をしていた中で、イチゴシロップが出てきた。今では明治屋さんなどが500ml程度のボトルで供給している、かき氷にかける赤いヤツ。
Y子の最新ブログ内容にそぐわない、虫歯になる食い物である(Y子のツッコミ:この赤い液体だけを頻繁に飲んでたらダメだけど、かき氷にかけてサッサと食べ、お茶か水で口をすすげば、そう悪くない)。
われらが高校に入った年、ちょうど地元に国体がやってきた。
その1年前、中学3年だったわれらは、運悪く、その予行演習のような準備作業などにかり出された。Y子は市の中心にある大規模中学でブラスバンド部に所属していたので、競技を行う場所に夏休みに引っ張り出され、演奏したのだという。Mは市の僻地にある矮小中学の陸上部だったから、ただの人夫としていろいろな施設で土方をやらされた。炎天下の作業はそれなりにキツいものだったが、部活で炎天下に走っていたのに比べると、むしろ楽チンだった気もする。いずれにしても、今の世の中で中学生をあんな風に使役したら、たぶん大問題になるだろう。それが何の疑問もなく行われていた、なんともユル~い時代だった。
その話の中で、Y子が、そう言えば・・・ と、差し入れに薄~~いイチゴシロップが出た、という話題になった。もちろん、あれは普通飲み物としては使っていない。あくまでもかき氷の味付け用で、薄めて飲んだという記憶は無い。ただ、考えてみれば、色つき香料入り砂糖水なわけで、希釈して飲んでも問題はなかったのだろう。ただ、普通はそういう使い方をしていなかった。少なくとも、自分の周りでは。
Y子も同様で、そのかすかに甘い赤い飲み物には少なからず驚いたらしく、笑い話だよね、と懐かしい思い出ばなしとして脳みその引き出しからつまみ出してきたのだった。
ところが、この話、このままでは終わらなかったのだ。
なんと、小学校2年の夏、Mはこのイチゴシロップ製造に関わっていた、という驚くべき事実を明らかにしたからだった。その製造工程は、今でも記憶にしっかりと残っているのだ。
とても実施できる状況にないと思うTokyo 2020から遡ること58年前、高度成長期に入っていた日本では、関東の田舎でも、その流れが確かに見えていた。
Mの母方の伯母さん(母のいちばん上の姉さん)が、Mが暮らすことになった地域の中心部にあるせんべい屋に後妻で嫁いでいた。世の中が右肩上がりでうごめく中、せんべい屋もそれだけではダメだと考えて多角経営に踏み出していた。乾き物のせんべいには飲み物が付き物。お茶は自分で淹れられるから、当時としては売り物になりにくい。ほかの飲み物で子供にも受けるものとして、ラムネ、サイダーがあった。せんべい屋さんは、これを自分で作ることにした。ただし、老舗だったせんべい工場で作るわけにはいかない。そこで、隣の土地にコンクリート床の工場を作り、その中にサイダーとラムネをビン詰めする機械を据えたのである。そしてそれが、伯母さんに任されていた。
Mは、その工場が稼働を始めた頃、もっと田舎に住んでいた。同じ市内なのだが、中心地から20Kmほど離れた農村地域で生まれ育っていた。借りていた家がかなり老朽化していて、土間で餅つきをすると、シロアリにやられていた天井の太い梁から、振動でパラパラと木くずが落ちてくるほどだった。その梁の上の部屋で家族が寝起きしていたので、これはまずい、ということになったのだろう。100mも無いほどの近さに小学校があって、そこに通って1年経った頃、市の中心に近い地域に引っ越すことになった。引っ越し先は、大工だったと聞かされていた祖父(Mは顔も知らないし、写真もない)が、自分で建てたという家だった。長い間空き家だったからだろう、話が持ち上がってから引っ越すまでにだいぶ手間がかかった。小学1年生を終えた時点での引っ越しを考えていたのだろうが、上手くゆかずに2年生に突入。しかも1学期の半ばに引っ越す羽目になった。親もさすがに戸惑ったのだろう。夏休みまでは転校せずに、新居からバスと汽車(電車ではない!)で元の小学校に通い続けることになった。ところが、田舎のことだから、バスや汽車は本数がごく少ない。通勤通学の時間帯だけはあるものの、小学校低学年の終業時刻は昼過ぎだから、汽車はあったがバスがない。苦肉の策で、上述した伯母さんの家で夕方のバス時間帯まで時間つぶしをすることになったのである。
小さな頃から終始動き回っている落ち着きのない子供だったMは、友達もいない伯母さんの家でジッとしていられるはずもない。かといって、地理に詳しくないから歩き回るわけにもいかない。そんなときに見つけたのが、ラムネ、サイダー工場だった。
なんと、その工場は伯母さんとその娘婿二人で切り盛りしていた。製造管理は伯母さんが中心で、当時はまだ珍しかった自動車運転免許を持っていた婿さんが、製品の輸送部門(小型トラックで小売り先への配送なのだが)を担っていた。
小学校から汽車で市の中心駅に着くと、伯母さんの工場はすぐ近く。ランドセルを玄関に放ると、そのまま隣の工場に直行。ガラガラとうるさいサイダーとラムネの充填機を操る伯母さん、婿さんと一緒に、工場の一員となったのである。
時間あたりの生産本数は多分1,000本程度だったのだと思う。できあがったサイダーやラムネのビンに、ラベルを貼るのが工員Mの仕事の一つだった。器用だね、とおだてられながら、お椀に入っている糊を刷毛でラベルにチョイと付けてビンに貼る。それを婿さんがどんどん木箱に収納して積み重ねていくから、休む暇はない。が、それがとてもスリリングで面白い。時々、機械の中でバァ~ン バシャ ガチャン という音がして動きが止まる。痛んでいたビンが炭酸の内圧に耐えられずに栓をした後で破裂するのである。そうなるとしばらく後始末で機械が止まるので、婿さんはそっちに手を取られる。そのあいだに、Mはラベル貼りを急ぐのだった。
これがラムネの時は、もう一つの楽しみがあった。ラムネのビンには外蓋がない。内側からビー玉が瓶の口を塞いでいるからだ。そのビンが割れると、割れた後に無傷のビー玉が残るのだ。このビー玉が、駄菓子屋で売られているモノより少し大きめだったから、希少だったのである。売られている化粧ビー玉のように模様が入っていることはなかったが、ビー玉遊びの時は、珍しさで注目を浴びたのだ。バァ~ンと音がする度に、思わずニンマリしたMである。希少ビー玉を何十個も持っていたが、あれはどこにいったのか・・・
その工員M、実は、伯母さんからもう一つの仕事を任されていた。それがなんと、かき氷のシロップ製造だったのである。
当時、シロップは一升ビンに詰めて卸されていた。無色(蜜 と呼ばれていた)、黄色、赤、緑の4色があった。一度に作るのはどれか一つだったが、なぜかと言えば、溶かす大バケツが一つしかなかったから。外が緑で内が白のホーロー引き大バケツで、多分100Lクラスだったはずだ。小学2年生のMの胸くらいまである容器だった。その中にMが壁に貼ってある分量にしたがって柄杓で砂糖を入れ、スプーンで香料と色素を入れる。大きな薬缶にわかしてある湯を婿さんがジョボジョボと入れてくれるので、長い棒でゴロゴロかき混ぜながら溶かすのがM。溶けたら今度は井戸水を入れて容器の8分目くらいまでにしたところで、長い柄にプロペラのついた機械を突っ込んで小一時間撹拌してできあがり。そのシロップ液は、大きな柄杓と漏斗で伯母さんか婿さんが一升ビンに詰めていく。Mはその先にいて、足踏み式の王冠カシメ機でシロップの一升ビンに蓋をしていくのであった。蓋締め作業が終わったら、あとはサイダーやラムネと同じようにラベル貼り。ラベルがついた製品は、婿さんが大きな一升瓶用木枠に詰めて重ねていった。
HACCPにしたがった近代的な食品工場の様子とは、根本から異なる原始的な家内工業。子供が学校帰りの服のまま、手を洗ったくらいで食品に類する「商売モノ」を作っていたのである。今考えるとゾッとするけど、たまらなく面白い経験だった。
大きな工場ではないし、それほどの商域を持っていたとも思えないが、小学生の作ったシロップで、近隣のたくさんの人々がかき氷を食したのだと思うと、実に愉快である。
そんなごくごく小さな生産工場が、日本中至る所にあったのだろうと思う。それがいつしか、大規模生産企業の誕生で、経済成長とともに消え去っていったのだ。
Y子のはなしに出てきた薄~いイチゴシロップは、当然Mが製造従事者になっていた伯母の工場のモノではない。その時分は既に、伯母さんの工場は閉鎖していた。ただ、Y子が小学生低学年だった頃は、もしかするとMが作ったシロップでY子がかき氷を食べていたのかも知れない。
う~~む、もしかして、赤いシロップ が 赤い糸 だったのか?!
半世紀前の笑い話である。