理系夫婦Y子とMの昭和から令和まで

都内で働く薬剤師Y子と、パソコン・DIY・生物などに詳しい理系の夫M。昭和30年代から今日までの実体験に最新の情報を加え、多くの方々、特に子育て・孫育て世代の皆様のお役に立つことを願いつつ発信する夫婦(めおと)ブログです。

トリチウム含有廃液の海洋放出

Mです。

**安全にやるから大丈夫。海に流しちゃいます。**
**怖くないから、国民の皆さん、これまでのことは水に流してください。**

ついに政府が踏み切った。

 どんどん増えるばかりの福島被災原発のALPS処理後廃液が、もうどうにもならなくなってきている。
 ALPSという処理装置は、日本語では多核種除去設備と呼ばれ、核汚染物質の入った水溶廃液から、放射性ストロンチウム放射性セシウムなど危険度の高い放射性物質を取り除くために、フランスなどから大急ぎで輸入して被災原発の汚染水を処理しているものだ。ただ、この装置は、イオン化していて極性のある物質の除去は出来るものの、トリチウムのようなイオン化していない放射性物質は除けない。だから、ALPS処理廃液として、被災原発敷地内に廃液タンクばかりがどんどん増えていく、という状況を作ってしまった。

 当初国が示していた廃炉処理40年など、今や誰も信じていない状況に陥っている。

 燃料デブリの取り出しはほぼ絶望的に見えるのだが、それでもまだ、「出来るはずだ論法」で推し進めている。誰が未来を見据えているのだろう。少なくとも、Mには、このままなら出口が見えない暗闇、にしか思えない。初期から思っていたのだが、最終的には、チェルノブイリと同じく、永遠のコンクリート棺桶にするしかないのではないかと感じている。

 それはさておき、敷地内で収まるはずのないタンク増設が不可能なのは誰が見ても分かること。で、とりあえず、海に流しちゃうしかない、と宣言したわけである。

 ALPS廃液は直径12m、高さ12.5mの1220㎥タンクに蓄えられている。2020年末にはその数が1000基を超えているという。貯蔵可能な量は総量137万㎥で、現状、その9割が埋まっているのだそうだ。敷地内がタンクで埋め尽くされている様子は、緊迫感にあふれている。

 東電は、2022年夏には満杯になると言っているが、裏を返せば、それ以上は入りませんからどうにかして、と当局に「スガ」って来ていたのだろう。

 トリチウムは、3重水素と呼ばれていることからわかるように、普通の水素原子が陽子一個と電子1個で出来ているのに対して、陽子1個に中性子が2個くっついた原子核の周りを1個の電子が回っているという構造で、普通の水素原子に比べると不安定でβ崩壊(電子が飛び出る)と呼ばれる核崩壊を起こす放射性物質なのだ。崩壊速度は半減期12年あまりと、小さな原子にしては寿命が長く、なかなか消滅しない。常に宇宙線が降り注いでいる地球の大気圏内では、わずかずつではあるものの常に作られているから、地球上からなくなることはあり得ない。人間を含む生き物たちはすべて、自分のカラダを作る構成要素として身体の中に取り込んでしまっているので、放射性物質とは言ってもごく当たり前の物質である。体重60kgの人間だと、体内に50ベクレル程度のトリチウムを持っているのだそうだ。だから、自然界に普通に存在しているレベルなら、トリチウムは何の問題もない。つまり、存在するだけで恐ろしい物質ではない、ということをみんなが理解しておく必要がある。

 とはいえ、それは自然界の通常レベルの線量なのであって、トリチウム濃度が高ければ当然生き物に放射線障害を与えることになる。
 その安全基準が国際的にも定まっていて、環境水中のトリチウムの場合、60000ベクレル/L未満なら安全ということにされている。現在被災原発敷地内にあるタンク内の濃度は、高く見た場合で300万ベクレル/L程だと発表されているから、これを信じるなら、最低でも50倍希釈すれば国際安全基準をクリアできる、と判断できる。だから、貯まりにたまってしまったトリチウム汚染水をどうするかを考えたときに、無尽蔵の体積に見える海に放ってしまうしかない、となるのは、理屈からすれば仕方の無いことだと思う。なにしろ、ほかに方法は思いつかないのだから。

 現に、原子炉の運転冷却水には、正常な状態でも、炉心の核分裂で生じる放射線の作用でトリチウムができて、自然界の濃度以上に含まれている。冷却水は、熱を発する炉心の周りを巡っているから温められてしまう。冷やすための水がどんどん温かくなっては困るので、温まった水は捨てて冷たい水を補給する。つまりは、温冷却水の放出をしなくてはならない。日本の原発では、この温冷却水を常に海に放出しているのだが、その際、放出水の放射線量をモニタリングしながら安全基準以下になるようにして海に流している。原発が海の近くにある事が多いのは、この冷却水の排出が簡単だから、という理由も関係している。そしてこれは、国際的に見ても当たり前のことで、危険視はされていない。

 ドイツのメディアが、中国版の記事として日本のトリチウム廃液海洋投棄に関する論説を発信している。事実を的確に分析・解説していて、一読に値する。

 ↓ 

www.recordchina.co.jp

 どこの原発でも普通に流しているモノなのだから、安全基準さえ守れれば別にかまわないじゃないか、というのが当局の考え方である。そして、肯定的な見方が諸外国にもあるわけで、決して異常なことではない、ということが、この論説からもうなずける。

 でも、それで本当に良いのだろうか? という疑問がある。

 トリチウム廃液とは言っているが、ALPSで処理できるはずの他種放射性物質が完全に除去されているとも言えず、詳細は明らかにされていない。そもそも、事故原発廃炉できるという前提自体が怪しい東電と国の処理事業は、現状で疑念がいっぱいの状態だ。基本的に、隠せる物は隠したい、という体質が見えてしまっている。そんな状況の中で、貯まってしまったからには仕方ないね、と簡単に同調できる雰囲気にはない、ということが一番の問題なのだと思う。

 論理的にこれしかない、ということは認める。しかし一方で、その具体的な方法論が明確に示されていないのでは、誰も納得できないと思うのだ。
 政府が言う「大希釈して安全な濃度にしてから放出」、という言い方にも、大いに疑問がある。

  ◆どこで希釈するの?

  ◆どうやって希釈するの?

 そんな素朴な疑問にも、何ら具体的方策が返ってこないからである。

 安全な濃度に希釈、のイメージを絵にしてみると、下の絵のようになる。
 左の小さな水槽の汚染水を、右の巨大な水槽に注いで海水をドバドバ入れて薄める、というイメージだ。薄めたらもう安全だから、巨大水槽から海に流すのである。

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 現実には、こんな巨大な水槽を作って希釈するなんてことはしないだろう。はるかに小さな混合装置で、少量の廃液を大量の海水と混合しながら徐々に廃棄していく、という手法が採られるのだろうと想像する。しかし、そのような装置であっても、今の言い様では、沿岸廃棄になると感じられる。
 そうだとすると、福島沿岸の漁業に風評被害が再び発生するのは明らかで、いくら政府が安全だからと言ったところで防げるものではない。現に、この状態を作ったのは長いこと続いていた国と企業との馴れ合いの結果だった。それを、失敗した後で、大丈夫だから大丈夫だから、と言い繕ってなだめるなんて無理なのだ。

 海洋放出、仕方が無いから認めましょう。でも、それならば、安全で、沿岸住民に危機感を与えない方法を考えなくてはいけないと思う。

 例えばの話として聞いて欲しい。
 公海上にまで続く長い長~い希釈と送水を兼ねる「放水管システム」でも作って、それを海底を這わせ、はるか沖合いまで敷設する。海底ケーブルのようなイメージだ。材質はステンレス管がいいだろう。先端には、強力な水流ファンを付けておいて、出てくる希釈汚染水を水流で分散させる工夫を行う。
 この装置の起点では、貯留廃液1に対して沿岸海水を汲み上げたものを9の割合で混ぜて送り出す。この送水管を大陸棚を超えて深くなる海に更に進めていき、公海上の深い海底で放出するのだ。もともと1/10に薄めて送り出した廃液を、遠くの深海で分散放出させるから、放出場所付近のトリチウム濃度が高いまま滞留することはないだろう。沿岸には一滴も漏らさないようにするのだから、沿岸漁業の脅威にならないはずだ。遠洋漁業にとっても、表層付近の問題ではないので、影響は無いと思う。ただ、深海の放出場所に棲む生き物たちには配慮する必要があるだろう。日本お得意の深海調査で、モニタリングも行うことにすれば、研究者には新しい知見になるし、海をより深く知る事に繫がっていくのではないかと思う。
 もちろん、この方法であっても、諸外国に了解を取ったうえで進める必要がある。

 ただの言葉だけではなく、具体的な実施計画を立てて相談すれば、現状で垂れ流しを容認している国々はもとより、より厳しい判断をする国々でも、ダメとは言わないだろうと思うのだ。

 まずは、知恵を絞った具体策を見せることだと思う。

 

 この問題に関しては、いくつもの関連資料が公開されている。
 下の資料は、経済産業省が公開している検討案の一つだ。そこここに、希釈して流しちゃうしかないよなぁ、という感じが漂っている。
経済産業省2018年公開資料)
https://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/osensuitaisaku/committtee/takakusyu/pdf/009_04_02.pdf

 また、以下のものは、三菱総研が公開している解説資料だ。素人にもわかりやすくまとめられていて、参考になる。
(三菱総研 2018コラム)
https://www.mri.co.jp/knowledge/column/20180620.html

 

 どうしようもない状況にある福島被災原発の今と将来について、正直に、そして、現実的に、根本的解決策を考えるべき時期に来ていると思う。

 果たして、現政権と東電に、その気概と覚悟はあるのだろうか・・・

 願わくは、ウルトラQにあったような(気がする)海底人を怒らせて襲来を招くような事がないように、と祈るばかりだ。

あっ ハチロク!!

Mです。

 先週の中頃、朝の都内一般道を走っていたとき、中央車線側から赤いスポーティーなクルマがウィンカーをチカチカさせて前に入ってきた。あれっ、どっかで見た形だと思ってよく見ると、なんと、ハチロクではないか!
 バブル後、一度レースからも撤退してスポーツカーのジャンルを見限ったトヨタさんが、20年近く前、現社長が副社長だった時代に、再び生産に乗り出した一般道を走る低価格帯のスポーツカー「86」である。
 懐かしくて、夜になってから調べてみると、生産を始めたのが2012年で、その後、ちょこちょこと細かな改良、改変を加えて、5~6回のマイナーチェンジを加えながら、2020年度にも生産していたと知った。
 若い人たちのクルマ離れが進む時代の中で、ちゃんとファンを繋ぎ留めているのだとわかって、なんとはなしに嬉しくなった。

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     ↑ TOYOTAさんの写真を拝借

 とはいえ、実のところ、Mはトヨタ車が全く好きではない。アンチTOYOTAで、ずぅ~っと通してきている。
 同じエンジンで顔を変えていくつもの車種を作って売りまくる戦術が、昔から大嫌いで、クルマ界の帝王であることは認めるものの、その商売っ気にまみれたやり方が好きではないのだ。車の内装は確かに群を抜いてすばらしいし、価格以上の出来映えには舌を巻くしかない。その点では、好き嫌いを言わなければ、完敗である。

 でも・・・・と、ひねくれたMは思うのだ。

 クルマは、性能と特長のバランスで勝負だろう! 何がしたいか、何ができるか、で選ぶ商品であるべきだ、という思考だったからだ。

 上品で過不足ないクルマがずらりとそろうTOYOTAには、「こだわり」よりも「洗練」が見えてしまい、へそまがりのMには 眩しすぎたのだ、と思っている。

 そんなTOYOTAさん、一度撤退したスポーツーカー分野に、バブル期にお兄ちゃん層に絶大の人気を誇った カローラ・レビン、スプリンター・トレノ、という比較的廉価でオーナーが手を加えやすい型式86を復活させた。お察しの通り、これら2車種は、T社お得意の同一エンジン別車種で、販売店の系列が違っていただけ。もちろんMは、冷ややかに見ていたクチである。

 ただ、この復活のさせ方がビックリ。自社単独ではなかったのだ。なんと、主要部分を余所に任せるというTOYOTAさんとは思えない手法だったのである。
 コンセプトは、小型で低重心、運転性能の高いもの、というところにあったのだろう。エンジンを、SUBARU水平対向エンジンにしてしまったのだった。

 水平対向エンジンは、今でもつづくSUBARUさんの独壇場。ラリー界で世界的に認められている高性能エンジンである。共同開発スポーツカーに、新型86の未来を見いだしたのだった。

 作られたクルマは、TOYOTAエンブレムを付ければトヨタ86、SUBARUエンブレムを付ければスバルBRZ、と呼ばれる。

 いずれも、作られているのは殆どが群馬県伊勢崎市の富士重工工場だという。TOYOTAブランドのクルマが愛知以外で出来上がってしまうのは、珍しいのだと思う。上州生まれのトヨタ車があるのだ。

 ちなみに、先週の朝、前に入ってきた赤のハチロクは、スバルBRZだった。すごくきれいなクルマだったから、最近作られたモノだったのかも知れない。

 その目撃から2日後、今度は、松戸市内を走っていたとき対向車線を走ってくる黒のハチロクに出会った。う~~ん、こんな珍しいクルマに2度も出会うとは、ちょっと信じがたかった。ちなみに、このときは、トヨタ86だった。

 2021年秋に、新型ハチロクが発売になるそうだ。
 見てすぐに分かるあのフェイスが、どんな感じになるのか、ファンではないのだが興味津々である。

 個性がどんどん薄れていくモノが多い中で、見た瞬間にそれと分かるモノは、すばらしいと思う。

両国橋街路灯 足元が・・・

Mです。

 今朝、隅田川国道14号で両国から浅草橋側にチャリで渡った。行き先は、浅草橋駅近くだったので、川の少し上流側になる。迷わず、両国橋東詰に近い信号を北に渡り、国道の北側歩道を走った。
 橋のたもとにある見慣れた球体を過ぎ、上り坂になった橋を行くと、車道と歩道を遮る内側の欄干近くに立つ、茶色の大きな街路灯の足元に目が行った。街路灯の根元と歩道の化粧タイルとの隙間を埋めているはずのコンクリートが、殆ど砕けてしまっている。思わずガラケーでパチリ。

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 タイル板と柱の基部フランジとの高低差は50mmほどで、そこをフランジ周に合わせてコンクリートで固めてあったようだ。それが砕けて散り散りになり、だいぶ消失している。割れた大きな破片が、ずれてはみ出していた。
 はて、なんでこんな状態になったのか?
 それを考えながら、ふたたびチャリをこぎ出した。

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Google mapより転載

上側の歩道を右から左に渡った。街路灯が4本ずつ見えている。

 街路灯は、橋の全長に、上流下流同じ位置間隔で4本立っている。上流側の残り3本を注視しながら隅田川を渡った。2本目、3本目、4本目、と残りの3本の足元は無傷。なぜ一番東の一本だけ破損? 疑問が深まってしまった。

 今の両国橋は、1932年に作られた物で、補修を重ねながら現役を務めているのだそうだ。現在の街路灯が最初からついていたのかどうか分からないが、ネット上での旧い写真でも同じような柱が見えたから、もしかするとこれもご老体なのかも知れない。照明装置は当然更新されてきているのだろうが、柱自体は元のまま、ということもあるだろう。いずれにしても、橋自体はもうすぐ90歳。がんばっている!

 江戸の前期、明暦の大火(振り袖火事、1657年)の際、今の浅草橋付近にあった浅草大門が開かず、逃げ惑った人々が大勢焼死したという惨事があった。大川(隅田川)を渡れれば東に逃げられた、という事実から、その後、今の橋より少し下流側に木組みの「大橋」が作られた。幾度もの罹災と修復を経つつ明治まで木橋が続いたが、1904年(明治37年)に初代の鉄橋がほぼ現在の位置に作られ、それが関東大震災を経て昭和に掛け替えられたとのこと。

「大橋」が「両国橋」に変わったのは、後に大川下流に新大橋が架けられたからだという(1694年)。大橋が二つでは、粋ではなかったのだろう。ご本家は、武蔵国下総国をつなぐ橋ということで「両国橋」に変わった。新大橋も改名してやれば良かったのに、と思うのは余計なことか。

 そんな歴史のある両国橋。架かっている位置は、西側上流すぐの位置に神田川の合流がある。神田川は、柳橋を経て50mほどで隅田川に合流しているのだ。上写真の左上に護岸がカーブしている部分は、神田川の合流部。そのため、海に近いこのあたりは、干満の差で両国橋の上流側で川の水流がかなり乱れる。神田川からの流れが引き潮につられて勢いよく流れ出るときもあれば、上げ潮で押し戻されて渦を巻いているときもある。そんな流れの複雑な場所に作られているのだから、橋脚の埋まった川底は、現在のコンクリートの塊ならいざ知らず、江戸時代の木の橋脚だった当時は流されないように維持するのが、さぞかし大変なことだったと思う。

 そう考えると、川の流れが複雑で水の震動も伝わってくるだろうから、橋は今でも常に揺れているのかも知れない。しかも現在は、多数のクルマがひっきりなしに上を走っている。さらに悪いことに、東詰の直上には首都高があり、その橋脚震動も両国橋の東側に偏って発生していると想像する。そんなこんなの揺れが積算されて、両国橋東の袂付近は、歪みが大きいような気がするのだ。

 帰り道、今度は下流側の歩道を走ってみた。
 基部のコンクリートが砕けていた一番東側の街路灯足元は、ヒビはあったが砕けてはいなかった。

 鉄製の街路灯は、路面コンクリートよりも下の鉄製橋桁に固定されているに違いないから、基部コンクリートは、隙間を埋める飾りのような物なのだろう。壊れても、実際上の問題が無いから放置されているのだと想像する。

 それはかまわないのだが、砕ける、ということはそれだけの圧力がかかったからで、その圧力は街路灯の柱が揺れているから発生したのだろう。そんな揺れが積み重なると、街路灯基部の鉄に金属疲労が発生しないとも限らない。コンクリートのスペーサーが砕けて無くなってしまった現在は、その原因になった揺れが、微妙ではあるだろうが振幅を増す方向に変化している、と想像する。

そんな疲労骨折が起こらなければいいなぁ、と思うおっさんである。

「槐」 読めますか?

Mです。

 時代小説が好きで、現代作家さんたちの手になる物をむさぼり読んでいる。中国時代物も好きで、これもまた、現代作家さんたちの小説専門。古典を読めるほどの素養が無いので仕方が無い。

 そんな時代小説に、時折、「槐」という文字が現れる。

 鬼の木って、何だ、と思ったが想像できるモノがない。中国物だと「槐樹」となっていることもある。「庭の槐」などと書いてあるから樹木だとは思っていたが、本筋に関係ないので、読めないまま飛ばし読みしていた。でも、何度も目にするうちに、さすがに恥ずかしくなった。こりゃいったい何なのだと、漢和辞典を引くことになった。そしてようやく一文字で「エンジュ」と読むのだと知った。
 とはいえ、漢和辞典では、豆科の高木、程度にしか解説がない。それ以上調べなかったので、樹形も葉の形もイメージできずにいた。

 そんな折、去年の晩夏に孫娘と遊んでいた公園(世田谷の砧公園)で、遊具広場の中にある大木に「エンジュ」というプレートがかかっているのを発見した。子供達が駆け回っているスペースに どお~ぉん と立っている大木。濃い緑の対生複葉(先端に1枚、その後対生で5~7列)がびっしりと茂った高さ8mくらいの木で、暗灰色で深い溝のある木肌がゴツゴツとしている。幹の直径は60cmほどだった。花が咲き残っていて、それを見て豆科だとすぐに分かった。小ぶりだが、ニセアカシアに似た形の淡いクリーム色の花が、やや平たくねじれて伸びた花柄の先にまとまって付いていた。強くはないが、柔らかく甘い香りも漂っていた。

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 実際に目にしてみると、濃い緑の葉を茂らせるので、しっかりと日陰を作る。豆科だから、冬は葉を落とすのだろう。夏は日陰を作り、冬は日を通す。庭に植えるのに適した大木ということだ。
 時代小説では、江戸の大名屋敷に植えられている姿が書かれたりしている。さぞや広い敷地に悠々と枝を広げているのだろう風情を感じさせていたが、実物を見て納得した。

 調べてみると、原産国は中国大陸で、中国では役人が出世すると庭に植える木だったのだそうだ。日本に伝わったのはいつなのかよく分からなかったが、花にルチンが含まれているので、薬用にされたとあった。ということは、木そのものを植えて楽しむためよりも、有用植物として渡来したのかも知れない。もちろん、大陸で高官の証とされていたことが、高位の武家屋敷に植えられるようになった理由だろう。

 それにしても、ひょんな事から出会った槐は、実は公害に強い樹として街路樹に使われたこともあったのだそうだ。成長が遅いので、手間がかからず、道路管理には重宝したのかも知れない。とはいえ、現実に街路樹になっているところは見たことがない。成長が遅いとはいえ末は大木になるのだから、普通の広さの道には植えられなかった、ということかも知れない。

 ところで、なぜ「鬼の木」なのか、そこのところは、まだ不明のままだ。
 もう少し、突っ込んで調べてみよう。

老ヒイラギ観察 Part 2 #02

Mです。

 昨年の10月、観察していた枝が元から切り取られてしまい、観察が頓挫してガッカリしていたら、いくつもの切断部付近から新しい芽吹きを見て大喜びした。
 その後も経過を観察していたのだが、寒い季節に入ってしまい、10月半ばの姿からなかなか変化が見られなかった。

 これまでの経緯は、以下のようになっている。

www.yakuzaishi-y-co.work

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 10月から観察は続けていたのだが、葉がしっかりと固まった事以外は変化が見られなかった。しかし、2月末からの天候変動でかなり暖かな日が混じるようになり、冬前には幹から短く飛び出ていただけだった新芽が、ここ半月の暖かさで大きく成長を始めた。
 下左の写真が3月22日時点のもの。前回から5ヶ月後である。 右が10月半ばのもので、黄色い丸で囲った対生(枝の同位置180度に付いていること)の小葉は、冬の間に脱落・消失して左のようになっている。小葉は、当時も、まるで種から芽が出たときの双葉のようだと記したが、まさにその形容が正しかったようで、気づいたら無くなっていた。

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 10月半ばには、まだ緑色になれないでいた6枚のギザギザ葉っぱは、今では左写真のように、しっかりした堅いトゲトゲ葉っぱになっている。それらの6枚がつく枝の先端には、まもなく伸びて葉を形作ると思われる突起が塊で付いている。最初に現れた葉と、対生小葉の後から出てきた葉は、小葉のあったスペースが結構空いていて、世代が違うことを位置で示しているかのようで面白い。
   
 今回は、もう一つ発見があった。

 10月半ばには、3枚のトゲトゲ葉が幹からいきなり出ている様に見える左横の小枝から、今は二つに分かれた若枝が伸びてきている。しかも、長い方の枝には、右写真と同じように、長楕円形の対生小葉が付いている(緑の丸囲い)。どうやら、成長初期の枝では、新しい成長部位の起点付近にこの対生小葉ができるらしい。
 
 ソメイヨシノもだいぶ咲き進んできた。これから暖かくなってくると、老ヒイラギでも、若返り枝の成長が一気に早まるだろう。

 小葉がどれくらいで落ちるのか、そして、新しい葉っぱが何代目までトゲトゲをつくれるのか、写真を撮りながら追いかけてみたい。
 

おもいでの味 かな?

Mです。

 Y子と中高生の頃の話をしていた中で、イチゴシロップが出てきた。今では明治屋さんなどが500ml程度のボトルで供給している、かき氷にかける赤いヤツ。
Y子の最新ブログ内容にそぐわない、虫歯になる食い物である(Y子のツッコミ:この赤い液体だけを頻繁に飲んでたらダメだけど、かき氷にかけてサッサと食べ、お茶か水で口をすすげば、そう悪くない)。

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われらが高校に入った年、ちょうど地元に国体がやってきた。

 その1年前、中学3年だったわれらは、運悪く、その予行演習のような準備作業などにかり出された。Y子は市の中心にある大規模中学でブラスバンド部に所属していたので、競技を行う場所に夏休みに引っ張り出され、演奏したのだという。Mは市の僻地にある矮小中学の陸上部だったから、ただの人夫としていろいろな施設で土方をやらされた。炎天下の作業はそれなりにキツいものだったが、部活で炎天下に走っていたのに比べると、むしろ楽チンだった気もする。いずれにしても、今の世の中で中学生をあんな風に使役したら、たぶん大問題になるだろう。それが何の疑問もなく行われていた、なんともユル~い時代だった。

 その話の中で、Y子が、そう言えば・・・ と、差し入れに薄~~いイチゴシロップが出た、という話題になった。もちろん、あれは普通飲み物としては使っていない。あくまでもかき氷の味付け用で、薄めて飲んだという記憶は無い。ただ、考えてみれば、色つき香料入り砂糖水なわけで、希釈して飲んでも問題はなかったのだろう。ただ、普通はそういう使い方をしていなかった。少なくとも、自分の周りでは。
 Y子も同様で、そのかすかに甘い赤い飲み物には少なからず驚いたらしく、笑い話だよね、と懐かしい思い出ばなしとして脳みその引き出しからつまみ出してきたのだった。

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 ところが、この話、このままでは終わらなかったのだ。
 なんと、小学校2年の夏、Mはこのイチゴシロップ製造に関わっていた、という驚くべき事実を明らかにしたからだった。その製造工程は、今でも記憶にしっかりと残っているのだ。

 とても実施できる状況にないと思うTokyo 2020から遡ること58年前、高度成長期に入っていた日本では、関東の田舎でも、その流れが確かに見えていた。

 Mの母方の伯母さん(母のいちばん上の姉さん)が、Mが暮らすことになった地域の中心部にあるせんべい屋に後妻で嫁いでいた。世の中が右肩上がりでうごめく中、せんべい屋もそれだけではダメだと考えて多角経営に踏み出していた。乾き物のせんべいには飲み物が付き物。お茶は自分で淹れられるから、当時としては売り物になりにくい。ほかの飲み物で子供にも受けるものとして、ラムネ、サイダーがあった。せんべい屋さんは、これを自分で作ることにした。ただし、老舗だったせんべい工場で作るわけにはいかない。そこで、隣の土地にコンクリート床の工場を作り、その中にサイダーとラムネをビン詰めする機械を据えたのである。そしてそれが、伯母さんに任されていた。

 Mは、その工場が稼働を始めた頃、もっと田舎に住んでいた。同じ市内なのだが、中心地から20Kmほど離れた農村地域で生まれ育っていた。借りていた家がかなり老朽化していて、土間で餅つきをすると、シロアリにやられていた天井の太い梁から、振動でパラパラと木くずが落ちてくるほどだった。その梁の上の部屋で家族が寝起きしていたので、これはまずい、ということになったのだろう。100mも無いほどの近さに小学校があって、そこに通って1年経った頃、市の中心に近い地域に引っ越すことになった。引っ越し先は、大工だったと聞かされていた祖父(Mは顔も知らないし、写真もない)が、自分で建てたという家だった。長い間空き家だったからだろう、話が持ち上がってから引っ越すまでにだいぶ手間がかかった。小学1年生を終えた時点での引っ越しを考えていたのだろうが、上手くゆかずに2年生に突入。しかも1学期の半ばに引っ越す羽目になった。親もさすがに戸惑ったのだろう。夏休みまでは転校せずに、新居からバスと汽車(電車ではない!)で元の小学校に通い続けることになった。ところが、田舎のことだから、バスや汽車は本数がごく少ない。通勤通学の時間帯だけはあるものの、小学校低学年の終業時刻は昼過ぎだから、汽車はあったがバスがない。苦肉の策で、上述した伯母さんの家で夕方のバス時間帯まで時間つぶしをすることになったのである。

 小さな頃から終始動き回っている落ち着きのない子供だったMは、友達もいない伯母さんの家でジッとしていられるはずもない。かといって、地理に詳しくないから歩き回るわけにもいかない。そんなときに見つけたのが、ラムネ、サイダー工場だった。

 なんと、その工場は伯母さんとその娘婿二人で切り盛りしていた。製造管理は伯母さんが中心で、当時はまだ珍しかった自動車運転免許を持っていた婿さんが、製品の輸送部門(小型トラックで小売り先への配送なのだが)を担っていた。

 小学校から汽車で市の中心駅に着くと、伯母さんの工場はすぐ近く。ランドセルを玄関に放ると、そのまま隣の工場に直行。ガラガラとうるさいサイダーとラムネの充填機を操る伯母さん、婿さんと一緒に、工場の一員となったのである。

 時間あたりの生産本数は多分1,000本程度だったのだと思う。できあがったサイダーやラムネのビンに、ラベルを貼るのが工員Mの仕事の一つだった。器用だね、とおだてられながら、お椀に入っている糊を刷毛でラベルにチョイと付けてビンに貼る。それを婿さんがどんどん木箱に収納して積み重ねていくから、休む暇はない。が、それがとてもスリリングで面白い。時々、機械の中でバァ~ン バシャ ガチャン という音がして動きが止まる。痛んでいたビンが炭酸の内圧に耐えられずに栓をした後で破裂するのである。そうなるとしばらく後始末で機械が止まるので、婿さんはそっちに手を取られる。そのあいだに、Mはラベル貼りを急ぐのだった。

 これがラムネの時は、もう一つの楽しみがあった。ラムネのビンには外蓋がない。内側からビー玉が瓶の口を塞いでいるからだ。そのビンが割れると、割れた後に無傷のビー玉が残るのだ。このビー玉が、駄菓子屋で売られているモノより少し大きめだったから、希少だったのである。売られている化粧ビー玉のように模様が入っていることはなかったが、ビー玉遊びの時は、珍しさで注目を浴びたのだ。バァ~ンと音がする度に、思わずニンマリしたMである。希少ビー玉を何十個も持っていたが、あれはどこにいったのか・・・

 その工員M、実は、伯母さんからもう一つの仕事を任されていた。それがなんと、かき氷のシロップ製造だったのである。

 当時、シロップは一升ビンに詰めて卸されていた。無色(蜜 と呼ばれていた)、黄色、赤、緑の4色があった。一度に作るのはどれか一つだったが、なぜかと言えば、溶かす大バケツが一つしかなかったから。外が緑で内が白のホーロー引き大バケツで、多分100Lクラスだったはずだ。小学2年生のMの胸くらいまである容器だった。その中にMが壁に貼ってある分量にしたがって柄杓で砂糖を入れ、スプーンで香料と色素を入れる。大きな薬缶にわかしてある湯を婿さんがジョボジョボと入れてくれるので、長い棒でゴロゴロかき混ぜながら溶かすのがM。溶けたら今度は井戸水を入れて容器の8分目くらいまでにしたところで、長い柄にプロペラのついた機械を突っ込んで小一時間撹拌してできあがり。そのシロップ液は、大きな柄杓と漏斗で伯母さんか婿さんが一升ビンに詰めていく。Mはその先にいて、足踏み式の王冠カシメ機でシロップの一升ビンに蓋をしていくのであった。蓋締め作業が終わったら、あとはサイダーやラムネと同じようにラベル貼り。ラベルがついた製品は、婿さんが大きな一升瓶用木枠に詰めて重ねていった。

 HACCPにしたがった近代的な食品工場の様子とは、根本から異なる原始的な家内工業。子供が学校帰りの服のまま、手を洗ったくらいで食品に類する「商売モノ」を作っていたのである。今考えるとゾッとするけど、たまらなく面白い経験だった。
 大きな工場ではないし、それほどの商域を持っていたとも思えないが、小学生の作ったシロップで、近隣のたくさんの人々がかき氷を食したのだと思うと、実に愉快である。
 そんなごくごく小さな生産工場が、日本中至る所にあったのだろうと思う。それがいつしか、大規模生産企業の誕生で、経済成長とともに消え去っていったのだ。

 Y子のはなしに出てきた薄~いイチゴシロップは、当然Mが製造従事者になっていた伯母の工場のモノではない。その時分は既に、伯母さんの工場は閉鎖していた。ただ、Y子が小学生低学年だった頃は、もしかするとMが作ったシロップでY子がかき氷を食べていたのかも知れない。

 う~~む、もしかして、赤いシロップ が 赤い糸 だったのか?!

 半世紀前の笑い話である。

歯に配慮しつつ、おやつを選ぶ

薬剤師Y子です。

今日は久しぶりに「歯を守る」ことに関して書きたいと思います。

 

このブログで私が初めて歯について書いた記事は、こちら。↓

www.yakuzaishi-y-co.work

2度目に書いた記事は、こちら。↓

www.yakuzaishi-y-co.work

3度目の今回、私が歯について書こうと思ったのは、ネットサーフィン中に [市販の飴やガムに表示されている「ノンシュガー」と「シュガーレス」の違い] について

ノンシュガーという表示の場合、砂糖は使用されていないが蜂蜜果糖などが含まれていて、砂糖と同じ程度むし歯を作るものもある。一方、シュガーレスと表示されている製品には、還元麦芽糖パラチノース、マンニトール、エリスリトール、キシリトールなどの糖アルコール)や、高甘味度甘味料(ごく少量で甘味の強い糖、ステビアなど)のみが使用されていて、むし歯をほとんど作らない

という記述を見つけたのがキッカケ。 

へ~、そうなのかあ。知らなかった~。「ノンではダメ。レスを選ぼう!」と覚えれば良いかな、 などと思いながら、たまに泊まりに来る4歳の孫娘と一緒に彼女のおやつを買う時のために、自分が納得できるまで詳しく調べたくて更に検索を続けたところ、なんと「ノンとレスの違いに関して、上記は古い! 今は下記が正しい。シュガーレスとノンシュガーは同じ意味。しかも変わってから20年以上も経ってる!」ということが判明。ネット検索で上位表示されるサイトから順に読んで「わかったような気になる」ことの危険性を痛感しました。www.kc-kichijozi.com

1996年に栄養改善法が改正され、1996年5月24日から1998年3月31日は猶予期間とされていましたが、1998年4月1日から次のように義務づけられました。

●「シュガーレス」=「ノンシュガー」
食品に含まれる単糖類・二糖類が0.5%以下である

よって、現在は同じ意味として使われているのです。(以上の小さい文字は、下記サイトより)

ノンシュガー・シュガーレスの違いは? | オレンジブログ〜札幌市南区の歯医者さん〜

 

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さらに「砂糖と違って歯に悪くない。むしろ歯を守ることにつながる」という印象がある「キシリトール」について、「ガムにキシリトールが使われているのは、虫歯予防のため。でも飴に使われているのは清涼感を得るためで、キシリトール入りの飴に、虫歯の原因になる原料が含まれていることも多い」と知りました。 

キシリトールはなぜ歯にいいの? | 交野市倉治の歯医者 | おがわ歯科こども歯科クリニック

 

孫娘はチョコレートとアイスクリームが大好き。「両者のうち、チョコよりもアイスの方が虫歯になりにくい」と知ったのも、今回の一連のネットサーフィンの大きな収穫でした。 

虫歯になりやすい飲み物、食べ物 | けんせい歯科

 

また、こちらの歯科医院のサイトにある「間接清掃性食品」、特にレモンと梅干しは、食べずに思い浮かべるだけでも効果があります。

清掃性食品と停滞性食品|浦安市 新浦安駅前の歯科医院デンタルオフィス・ソレイユ

私の仕事は「9時間拘束」で、1時間の休憩を除くと「よほどのことがない限り、水を飲みに行きたいとは言いにくい」現場。仕事中、口の中がカラッカラに乾いてしまったときなど、私は「白い御飯の上の、大きな梅干し」や「ナイフでスパッと切ったら果汁が溢れ出た、いかにも酸っぱそうなレモン」を思い浮かべて唾液を出しています。

 

何でもネットで調べることが出来る便利な時代。古い情報、不正確な情報、誰かが自分の利益のために流している情報などを鵜呑みにせず、気が済むまで時間をかけて調べたいものだ、と、今回あらためて感じました。